映画「R100(2013)」が“物足りない”理由と考察、その感想

④物足りない☆2

R100

監督-松本人志  100分 2013年

脚本-松本人志

出演-大森南朋、松尾スズキ、大地真央、寺島しのぶ、片桐はいり、松本仁志、富永愛、他

映画「R100」のあらすじ

若い女性(富永愛)が、喫茶店のトイレの個室でたばこを吸っている。

化粧を直し片山(大森南朋)のいる席に戻る。

話の途中で席を立たれた片山は、話を続けるが女は無視し続け、おもむろに立ち上がって片山に回し蹴りをする。

鼻血を出した片山はトイレの中で血をぬぐう。

そのトイレの個室には、さっき女がした大きいほうが流されずにそのままになっていて、気づいた片山は水を流した。

トイレから出ると女はいなくなっており、急いで店の外に出て探すが見当たらない。

あきらめて一人歩いていると、そこに女が現れ、コートを脱ぎボンデージ姿になった。

そこで女からまた蹴りを食らわされ、階段を転げ落ちる片山。

痛がる片山だったが、なぜか顔は恍惚の表情に包まれていた・・・。

片山は会社員として働き、妻と子供と幸せであろう家庭を築いている。

しかし、それでは満たされない自分の性癖を満たすため、あるSMクラブに入会する。

そこは通常のクラブと違い、いつSM行為が始まるか分からない。

片山の通勤時、商談時、帰宅時・・・時と場所を選ばずに行われるSM行為。

とまどいながらも、片山の心は歓喜に満たされていく。

しかし、だんだんと度を越してエスカレートしていくSM行為に不安を覚えた片山は、退会を申し出る。

クラブ側はそれは出来ないと言い、さらに片山へのSM行為は続く。

喜びから恐怖に変わり、身の危険を感じる片山。

自分や家族を守るため、片山が取った行動とは。

“物足りない☆2”理由と考察、その感想

無理やり100分にしたのか?

話題になり見に行こうと思ったのだが、時すでに遅し、打ち切りで見れなくなっていた。

レンタルが開始したので、DVDで鑑賞、タイトルのR100の通り、時間がぴったし100分になっている。

観る前からマイナスの批評がよく耳に入っていたが、実際自分の目で確かめようと思った。

前半と後半で、ちょっとテイストが変わる。

前半部分は緊張感があるドラマテイストだが、後半部分はなんでもありというリアルとかけ離れた展開。

今までのある程度のリアルさが効いていて、という訳でもなく、かといって今までの話が無意味になるくらいめちゃくちゃでもないので、後半にしぼんでいく感じを受け、ちょっと飽きてしまった。

無理やり100分にしたのかな?という。

監督本人が出る必要性を感じない

映画の中盤で監督本人が出演しているのですが、なぜ出てくるのか分からない。

決して演技が自然なわけではなく、さりげなく出るわけでもなく、キーパーソンでもなく、役に松本人志である必要性を感じない。

役者を使えばと思うのだが、自分の描いた絵にサインを入れる画家のようなものなのか?

なぜここに?と思ってしまった。

話の結末はいわゆるメタ構造になっていて、今までの話は実は・・・というものなのだが、それ自体の言いたいことは分かった。

しかし、劇中で「片山が恍惚の表情になる」というパターンがラストでも使われているだが、発展したものではないので、インパクトが薄く感じる。

これをやりたかったのか!というものでもなく、なんとなく使ってみました、という感じを受けた。

物足りない掘り下げ

キーポイントになっているパターンの究極バージョンとでもいうべきものがラストに用意されていたら良かったんじゃないかな?なんて思う。

このパターンをどれだけの種類で見せれるか、というのがこの映画のテーマであるように感じる。

しかし、なぜか種類が少なく発展していかないので、物足りない。

そこに絞って掘り下げていくと面白くなっていったんじゃないか。

例えば、「究極のMは究極のSである」というのを適用して、片山が世界の独裁者になって市民を弾圧、世界から批判されたり、核ミサイルが自分に発射されてきてそこで恍惚を感じるとか。

もしくは、訳が分からないが、ボランティア活動で感じる、オネエになって感じる。

自分はDNAという遺伝子によって生かされている、自分の意志ではなく誰かに生かされている、生きていること自体がMなんだと悟り、もう呼吸をするだけで感じてしまう、とか。

そしてそれをフォレストガンプ風の半生期で綴る、じゃないけども。

そういった掘り下げ方も物足りなく感じた。

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