日本のドラマや映画に感じる違和感、その理由と考察

こぼれ話

はじめに

自分が今から言うことは、決して日本のドラマや映画を楽しんで見ている人を腐す訳ではありません。

ただ、自分が感じていることを書いているだけです。

決して悪気があって言っている訳ではないので、どうかご容赦ください。

なぜ最近の日本のドラマは面白くないのか?

自分は適当にテレビをつけて、ドラマが流れている時、そのリアルではない空気感をすぐに感じて、他のチャンネルに変えてしまいます。

海外の映画やドラマも作り物感がすごくて嫌気がさすものはあるにはありますが、日本はその次元が度を越していると思います。

これはひとえに、全体を通してリアルでないということに尽きますが、なぜリアルではないのか、まずは簡単に挙げて見ました。

演技がわざとらしい

そもそも演技がわざとらしいので、どんなに良い脚本でも、もう面白く見れなくなってしまいます。

日本人俳優の演技は、ほとんどが演技をしようしようとしているので、作りごとの振る舞いにしか見えず、緊迫したリアルな空気感を見ていて感じることは少ないです。

もちろんナチュラルな俳優も数少ないがいるにはいますが、その数少ない人が頑張っても全体としては大した意味はありません。

ベストセラーの小説、漫画、アニメを実写化しようが、海外の名作をリメイクしようが、もうこれは糠に釘のような状態ではないでしょうか。

チープな音楽が要所要所でよくかかる

多くの日本のドラマに見られることですが、穏やかな場面では穏やかなクラシックのような音楽、コメディタッチの様な場面ではコミカルな軽快な音楽、感動を盛り立てる場面では大げさな音楽を、やたらとかけてきます。

演技とストーリーが組み合わさって、積み上がった上に音楽がスパイスとして加わるのなら効果的ですが、そもそも大して何も起きていない、演技でリアルな空気感が出来上がっていないのにそれなりの雰囲気の音楽が流れても、余計白けるだけです。

きっと、ドラマはこういうものだろう、場面に合った音楽を流すものだろうと、意味を理解せずに安易に海外のドラマや映画の外側だけを真似しているだけなのでしょう。

なぜか、肝心の演技面や会話の中身は一向に真似しようとしません。

中身がないのに、形だけそれなりに取り繕うとしている感じが、全体で見るとより安っぽく見えてしまいます。

セットや背景に生活感や生感を感じない

ドラマに出てくるセット、主人公の部屋はもちろん、主人公の仕事場など、映っている背景にリアルな雰囲気を感じることはほとんどありません。

きっと、これもこんな感じだろうくらいで止まっていて、本当に住んでいるようにしか見えない部屋や、会社の中にしか見えない仕事場、という所まで作りこむ気がないのでしょう。

生活感があるならあるなりに、ないならないなりにリアルがそこに存在しているはずですが、どっちも中途半端にしか作ることが出来ないんだと思います。

海外のドラマでも、仕事場が作り物っぽいセットのドラマは見ますが、海外の俳優は演技がしっかりしていて存在感があるので、それでもデフォルメとして成立してしまいますが、日本人はそれを真似しても同じにはなりません。

日本人の演技であれば、そういった細部に手を抜いてしまったら安っぽさに拍車をかけるだけなので、せめてそこだけでもリアルに作りこもうとすら思わないのであれば、絶対に勝てないと思ってちゃnしまうのですが。

そもそもそんなことを思うのであれば、根本の演技をまず何とかしようと思うはずですから、思わないからリアルに作りこもうとも思わない訳で、ない世界の話かもしれません。

エキストラでいえば、よく見かけるおかしな光景として、カフェや居酒屋で主人公達が結構な大声を出したのに周りのエキストラが全く見ない、ざわつきもしない、という光景をよく見ます。

エキストラへの演技指導もきっと一辺倒なんでしょうね。

カフェや居酒屋って結構お客さんやスタッフも入り乱れてますし(超高級な場所や人がいない時間帯とかなら別ですが)、ガヤガヤしている雑多な場所なはずなのに、エキストラは座って静かににこやかに話すだけだったり。

いるいるこういう人という人が出てこない

見たいのは、いるいるこういう人というあるあるのようなリアルさですが、日本のドラマでは、ほとんど主人公から脇役まで、いないいないこんな人、という作り物の感じです。

たまにいても、多くの作り物の演技に飲み込まれてしまいます。

目的は一体何なのでしょう?

本物の警察とか、病院とか、レストランとか、そこで本当に働いている人達を見たことすらないのかなとか思ってしまいます。

実際の職業の人がそんなしゃべり方をしていないのに、平気で日本の役者はお構いなしに、なんとなくこんな感じだろうという適当な演じ方で貫き通してしまいます。

指摘しない監督や演出陣はどの口で大声で「カット、オッケー!」と言っているのでしょう。

実際に見たことはなくても、ドキュメントでもなんでも研究しようとすればいくらでも出来ると思うのですが、それをやらないということは役者としての仕事、監督や演出としての仕事を放棄しているということなのに、それに日本のスポンサー会社が多額の報酬を払っているというのは、なんともちゃんちゃらおかしい。

役者はよく虚業なんて言います。

役者は実際の職業ではなく、他の人の仕事を真似したり模倣したりするので、役者という仕事自体中身がない虚である、という意味ですが、日本の役者の場合、本当に悪い意味で虚業だと思います。

嘘だろうが何だろうが、そこに真実があれば感動するわけで、それに虚もクソもありません。

作り物だとわかっていても映画を見て涙を流して心揺さぶられることがある訳ですから、虚業と言われようが関係ないと思います。

しかし、日本の役者は本当に虚であることに気付いていない。

リアルを追求しない、ママゴト丸出しの張りぼての役者が、役者なんて所詮虚業だからさ、なんて格好つけて言っているのをみようものなら、後ろから頭を引っぱたいてやりたくなります。

だから、今の日本のドラマや映画を見るくらいだったら、同じ日本産でもドキュメントを見ている方が圧倒的に面白い。

そういったドキュメントと見比べても明らかですが、日本の役者がいかにそういった勉強をしていないことが丸わかりです。

情熱大陸で、ある若手の役者が、「本当にいるかもしれない、この人」と思わしたい、と密着中に言っていて、番組に付いたサブタイトルが、「一線を画す演技論・・・どんな役も現実に存在するように」となっていて、ずっこけました。

一体、何が一線を画す演技論なんだ、役者としてごくごく当たり前の、基本中の基本を、一線を画すって・・・。

日本では一般的な演技論が、現実に存在しないように演じる=嘘くさく演じるということなのでしょうか?

怖すぎる・・・。

そもそも日本のドラマや映画に誰もリアルを求めていない、それで成り立ってしまう

俳優、監督、大道具や美術などのスタッフ、制作会社、スポンサー、そして視聴者と、誰も日本のドラマにリアルなんて求めていません。

誰が悪いとかではなく、誰も求めていないんです。

求めていないからリアルなドラマが出来ない訳で、当たり前と言えば当たり前の話しです。

何を見ているのかというと、好きな俳優やその服装、いわゆるイケメンがいるかいないか、今話題のオシャレなスポットが映っているか、流行っている最先端の情報を使っているか、演技そっちのけでいいから感動できる話になっているか、その程度だと思います。

それで、全てウィンウィンで、作る側も食えている訳で、何も問題はないという、ある種すごく完成してしまっています。

戦後やかつての高度経済成長真っただ中の時代のような、今まさに貧困から抜け出すために希望が必要なんだ、という熱い思いを俳優も体現する必要もないし、国民もそんな気分でないから、求めていないということでしょう。

単純に国が豊かになったから求めなくなった、豊かでなかったときはまだ気持ちがあったから、そこにリアルさが自然発生していた、ということかもしれません。

しかし、それだけでは説明がつかないのが、今現在日本と同様にある程度豊かになっている他の国のドラマや映画と比べても、日本のドラマや映画は圧倒的にリアルでないですし、日本人俳優は圧倒的に大根だということです。

きっと、日本人の熱い気持ちが宿ればリアルで良いものが出来る可能性はありますが、国が豊かかそうでないかは、面白い作品を作れない、根本的に演技が下手である、ということとはあまり関係がないのかもしれません。

以前の記事でも書きましたが、日本人の独特の演技の下手さは、日本人の根本の性格や日本語の特殊性によるものが大きく、それを監督している側も日本人だから気付かない、ということなんだと思います。

大衆がリアルを求めていないばかりか、提供する側も何が正解か分からないのを分からないとも気付かないまま垂れ流しているので、こんな現状でも成り立ってしまうということでしょう。

日本のドラマのコメディータッチは致命的

日本のドラマにも様々ありますが、若者をターゲットにしている、2〜30代の役者が主人公のドラマはまあ見るに堪えません。

各局が力を入れている21時代に始まるドラマ系は特にきついものが多いです。

真剣にお互い感情を出し合ってぶつかった末に、たまたまコミカルに見えるのがコメディーとして理想的だと思うのですが、日本のドラマは必ず意図的に無理に面白おかしく見せようとしているシーンが丸わかりで、ただえさえ大根なのに、リアルじゃない設定、リアルじゃない会話内容、リアルじゃないしゃべり方、リアルじゃない服装で、無理に面白くしようとしているものですから、そんなシーンでは一気に学芸会感が画面上に充満してしまいます。

日本人は、気質的に特に演技の上でのコメディセンスというものが他の国に比べて圧倒的に低い、ママゴトであると言わざるを得ません。

一時代前の日本のお笑いは間違いなく世界で一番だったと思いますが、日本の役者陣はまあコメディーに向いていないと思います。

かといってお笑いの人が役者をやったからと言ってほとんど大したことがないのは事実なので、役者とかお笑いとかの問題ではないかもしれません。

そもそも、真剣に演じる、あざとくなく演じれているのかどうか、ということ自体が分からぬままやっている役者がほとんどなのですから、コメディーなんてとても出来ないことをしていることにすら気付いていないんでしょう。

何も世界に通用しない日本アカデミー賞

日本アカデミー賞って一体何なんでしょう?

ハリウッドを真似したのがきっかけみたいですが、公認も受けているようですが、大して良くもない作品や俳優に無理やり賞を渡して、もらう方も安心して、傷をなめ合っているようにしか見えません。

何が大根かそうでないかも判断できない人達が判断できない人達に賞を挙げている訳ですから、しかも名前が「日本アカデミー」と恥ずかしすぎると思わないのでしょうか?

原作○○と言われる大ヒット小説や漫画の実写化について

小説や漫画が原作の日本のドラマや映画の脚本自体は悪くないと思います。

もともと良いものを実写化しているので当たり前と言えば当たり前ですが。

日本発祥の独自の面白いストーリーというのは、世界にも通用し得るものがあるとは思います。

しかし、演技や演出が下手すぎて、何もかも台無しにしてしまいます。

原作がめちゃくちゃにされる、という意味でよく「原作○○」などど酷い言われ方をしますが、よく考えたら、原作とは程遠いクオリティの低さなので、原作は何も傷ついていないとも考えれらます。

原作も大して面白くないんだろうな、と思われる風評被害は大きいかもしれませんが、原作の面白さ自体は揺らぎません。

そのくらいかけ離れたことを実写化ということでやりまくっている気がします。

しかし、原作者自体も実写化されて喜んでいる人ばかりなので、しょせん餅は餅屋で、いくら面白い小説や漫画を書けても、役者が大根かどうか、演出が足りてるのかどうかなどは分からない人が多いのも事実なんだと思います。

大ヒット漫画やアニメすら次々に実写化されていますが、制作陣がやるべきことが完全にずれていると思います。

めちゃくちゃ基本的なことですが、どんなに良い脚本があっても、演出や演技が下手であれば面白くはなりません。

日本のドラマ・映画制作陣は、なぜ面白いものが出来ないんだろう?と、次はこの話、次はこの話、と次々にヒットしたストーリーを実写化しますが、その基本を疎かにしたままなので何万回やっても同じことです。

もういい加減、これは脚本の問題ではないな、となぜ気付かないのでしょう?

そこに光はないのに、とにかく実写化すれば良いと思っているだけの感じが、まさに学芸会そのもの、いや、学芸会は子供が一生懸命やるものなので、学芸会の良さすらもありません。

逆に童話のようなシンプルなストーリーをちゃんとあざとくなく皆で演じてみる、劇を作ってみる、という所を猛練習しなければいけないレベルなのではないかと思います。

特に、漫画やアニメの実写化は小説よりも顕著に足りていないことが丸わかりなのに、相も変わらずやり続けているのは、呆れを通り越して何も言えない、むしろそのまま突き進んでくれ、という感じでしょうか。

むしろ、絶対に面白く作らないでもらいたいとも思います。

分かりきったことかもしれませんが、具体例を挙げると、カイジ、進撃の巨人、キングダム、約束のネバーランドなど、枚挙にいとまがありません。

例えば進撃の巨人なんて、ハリウッドほどお金をかけられない、演技も下手でうまく出来ない、させられない、演出の仕方も分からない、顔立ちが西洋風のキャラクターも多いのに日本人俳優しか使わない、のに、なぜ、どうやって実写化しようと思ったのか?

というか進撃の巨人は漫画もさることながら、アニメ自体、絵の迫力や音楽、声優の熱量など、かなり濃いものになっていて、それを超えるなんてほぼ不可能と思われるのに、およそ勝てる材料を何も持たずになぜ戦おうと思ったのか?

それはまるで、昔の日本軍の特攻精神に近いものがあります。

カイジも酷かったですね。

主人公がカイジとかけ離れたあざとさの塊のような俳優が演じている訳ですから、世界観もちゃんと作る気がないし、それがかなりヒットするという世にも奇妙な物語を地で行く現象が日本では起こっています。

カイジ役の彼は、蜷川幸雄に一体何を教わったのか?蜷川幸雄は一体何を教えていたのか?むしろこれでも大分良くなった方なのか?むしろ教えたことで変てこな場所に入ってしまったのでしょうか?

考え出すと色々と怖くなることが日本のドラマ、映画界で起こりまくっているのですが、それを作っている側は裕福なくらい食えていたり、たくさん見ている人がいたり、なんかとてつもなく奇妙な大きい壁が日本には出来てしまっています。

ここ最近で良かったと思ったドラマ

では、日本のドラマでここ最近で良かったものは何もないのか?と言われればそうではありません。

私が見て良かったと思ったものは数本ですが、ぶっちぎりの一位が「半沢直樹」です。

古いと思われるかもしれませんが、これを超えるものは出てきていないからです。

堺雅人が鬼気迫る感情で敵役を次々と論破しながら成り上がっていく様は実に爽快で、大ボスの香川照之演じる大和田常務との闘いは、演技を超えた魂のぶつかり合いで、日本のドラマ史にがっつりと傷跡を残したと言っても過言ではありません。

脇役も実に良かった。

いやらしい小木曽を演じた緋田康人からはじまり、気弱な相棒の滝藤賢一や、国税局・金融庁のオネエの検査官の片岡愛之助など、名脇役が堺雅人の演技に華を添えていました。

海外のドラマと比べても、引けを取るどころか、上を行っている部分がかなりあったと思います。

この「半沢直樹」が日本のドラマの頂点ではなくて、これが普通でないと話にならないと思います。

このくらいでないと、感動しない、来週が楽しみとも思わない、誰も俳優に憧れない、と思います。

この「半沢直樹」でも、おかしな部分はいくつもありました。

怒りを抱いている時の堺雅人の演技は実にナチュラルで、圧倒的ですが、家に帰った時などの普段の感じがかなりおかしい。

お気づきの方もいるかも知れませんが、堺雅人は変わっている方で、怒っていない時、「普通にする」という時の演技がかなり不自然で、何かが憑依している時は良いですが、そうでない時は無駄にニヤニヤしていたり、言動もふわふわしていたり、どんな人間か分かりません。

ジェイク・ギレンホールと似たような感じですかね。

怒っている時や、狂っている演技はピカイチですが、そうでない普通という状態の演技が下手というか、不自然に見えてしまう俳優です。

そんな半沢の妻の上戸彩もなぜ半沢と一緒になったのか分からない、若くて軽い感じの奥さんで、家庭のシーンが異様に浮いて見えてしまいました。

もっと、妻らしく妻役が出来るナチュラルな俳優はいたはずでしょうに、なぜこうキャスティングしたのか、見栄えを選んで話題を狙ったのか分かりませんが。

それでも、怒りを宿して言葉でまくしたてながら相手にぶつける演技のクオリティさでは、今でも日本で彼の右に出る人はいないのではないでしょうか?

いや、世界でも普通に通用する演技だと思います。

ドラマの主人公には、せめて怒りを宿した堺雅人くらいの人が主人公でないと、全体が良いものになりません。

半沢直樹は脇役も良かったと書きましたが、それはあくまで堺がいたからよりよく見えた、堺の圧力に押されて触発され、いつも以上に力が出せたからだということは忘れてはなりません。

もし、半沢が堺でなかったら、それはそれで面白いドラマだ、と世間では言われていたのではないでしょうか?

もっと面白い世界があるにも関わらず、気付かないままだったと思います。

池井戸潤の小説がこれ以降たくさんドラマ化されますが、半沢直樹の比になりません。

なぜ半沢ほど面白くならないのか分からないまま、また制作陣は次々と良い脚本を下手な演出で量産していきます。

女王の教室の阿久津先生の言葉を借りたら、「いい加減目覚めなさい。」と言ったところでしょうか。

あれは、堺雅人の演技が良かった、それが全ての軸だった、となぜ気付かないのでしょうか?

NHKの連続朝ドラマはまだ見ていられる

NHKのいわゆる朝ドラはまだ見ていられるものが多いとは思います。

なぜかというと、15分という短い時間で完結するように見せ場が作られていること、オーディションをしていることだと思います。

普通ののっぺりしたドラマに比べてギュッと凝縮されているので、普通のドラマに比べてまだ見ていられます。

オーディションは最近はしたりしなかったりなのが残念ですが、まだオーディションをして、主役を有名無名関わらず役に合った俳優を選ぼうとしているので、まだ悪くありません。

一時間のドラマも、せめてこれくらい力を入れて作ればまだ見れるものになると思うのですが、やる気がないのでしょう。

それでも、見ていられる、くらいなので、積極的に見ようとは基本的に思いませんが、ここ最近で、次が気になって見たいと思った唯一の朝ドラが「あまちゃん」です。

能年玲奈の演技に見えないナチュラルな立ち振る舞いに心惹かれてしまいました。

これも能年玲奈が良かったからこそ、宮藤官九郎の脚本もより映えましたし、脇役の小泉今日子や古田新太、有村架純も光ったんだと思います。

超えられない某事務所の壁

日本ドラマや映画で違和感の大きな一端を担っているものが、大手芸能事務所のキャスティングの壁です。

もっと根本的なことを言えば、大手芸能事務所のごり押しというよりは、仮にごり押されてもOKしてしまう制作側に演技を見る目がない、キャスティング能力がないことが問題だとは思います。

それでも、皆さんご存知の某大手芸能アイドル事務所の大根アイドルたちがドラマで主役をやりまくっているこの日本のドラマ・映画界は本当に終わっています。

なぜこんな顔だけそこそこ良い大根のアイドルが出ている?これならもっと合っている役者は腐るほどいるといつも思ってしまいます。

アイドルだろうが役者だろうが、ごちゃまぜでオーディションして、役に合っている演技が出来ている方を選べばそれで良いわけですが、オーディションもせず、コネでキャスティングされてしまいます。

仮にオーディションしても、制作側に見る目がないわけですから、大根のアイドルが選ばれるという理不尽な事態も起きることは容易に考えられますが、せめてそこの門戸を開くというまともな目線を日本の芸能界は持たない限り、良い役者は絶対に出てこないと思います。

制作側と芸能事務所がズブズブな訳ですから、そこを打ち破っていくのはやはり堺雅人のように、他に誰にも真似できない演技力や表現力を役者は全員身に付けるしかないのかもしれません。

三船敏郎や松田優作だって、代わりはさすがにアイドルでは出来ないわけですから。

といっても怖い話、アイドルではないですが、「椿三十郎」を某俳優でリメイクされ、表面上だけ三船敏郎の真似をしようとしているのか、「~だぜ」とまるで語尾がすぎちゃんみたいになっていて、見ているこっちも恥ずかしくて見ていられないということもありました。

「隠し砦の三悪人」もリメイクされ、これはアイドルが主演でストーリーはほとんど違うらしく、それなら全然別の作品として作れば良かったと思うのですが、それでも絶対に超えられないであろうものをリメイクしてしまっている訳ですから、もう歯止めが効きません。

きっと、松田優作の作品もアイドルか何かがそのうちリメイクしてしまうかもしれません。

存命でなければ、何やっても良いと思っているのか、なめきっているというか、まあ判断基準を持ち合わせていない人達がやっているわけですから焼け石に水でしょう。

それでも、きっと彼らが第一線で活躍していた頃であれば、そんなことは許さないし、暗黙のうちに安易なリメイクなど出来なかったことでしょう。

大根なアイドルが入るスキなど微塵も与えていなかったと思います。

日本の役者は、礼儀正しく与えられた役をありがたがってもらってばかりでなく、それこそ半沢直樹のように怒りを持って理不尽なキャスティングに物申していったり、時にはリアルでない脚本を与えられたときに監督とぶつかったり、積極的に正しい力で誘導していって欲しいものです。

日本人はあまり自己主張をしない民族と言われていますが、演技力があって役に合っているアイドルがキャスティングされるならそれはそれでいいですが、そうでなく明らかに「おかしい」のに、何も言わずに黙っている、怒りもなければ恥ずかしさも悔しさもない、人それぞれオンリーワンだからなどと誤魔化して闘おうとしない日本の俳優は、ただの弱虫か、何も分かっていないおバカさんだと思います。

大きな理不尽な力が今も日本の俳優界に働き続けている訳ですから、日本の俳優はそれを全てひっくり返す、半沢を地で行くような俳優が出てくることを望んでやみません。

コメント

  1. せき としこ より:

    私は瀬戸康史という俳優が好きです。NHKドラマ「透明なゆりかご」で産婦人科医師役の彼を見てから注目しています。「ルパンの娘」「愛なのに」では、共演者達の熱演が光るのは、瀬戸康史がぶれないで受け止めていると監督が言っています。この2作で彼と共演したさとうほなみが「瀬戸さんそのものでお芝居をされる」と言っていますし。瀬戸康史は「自分と全く違う人間を演じることは出来ないので、全部自分の一部というイメージで演じている」と言っています。演出家達の評価も高いのですが、一般の視聴者達には、彼の演技力の高さはあまり評価されていないようです。