ハッピーエンド 英題:Happy End
監督-ミヒャエル・ハネケ 2017年 107分 フランス・ドイツ・オーストリア
脚本-ミヒャエル・ハネケ
出演-ファンティーヌ・アルデュアン、イザベル・ユペール、マチュー・カソヴィッツ、ジャン=ルイ・トランティニャン、トビー・ジョーンズ、他
「ハッピーエンド」のあらすじ
13歳の少女エブは、両親が離婚し、母親と二人で暮らしているが、ある日母親に大量の薬を飲ませ、母親を意識不明の重体にさせ、病院送りにしてしまう。
母親が自殺したと解釈したエブの父親は、エブを自分の家庭に迎え入れる。
その家は、父親の再婚相手とその赤ちゃん、父親の姉とその息子、認知症の祖父が住む、裕福な家庭だった。
一見誰もがうらやむ理想的な家庭だが、それぞれ仕事や、生き方に問題を抱えているのだった。
“観て損はない☆3″理由と考察、その感想
ハネケが描く皮肉な家族の形、感情を使った謎解きクイズ
独特の長回しとロングショットが多用され、まるで自分が他人の生活を覗き見しているような感覚に陥る。
ある意味ドキュメントよりもドキュメントらしいリアルさで、何気ないが緊張感がある映像が随所に散りばめられている。
普通に見ると、これなんなんだ?よく分からない、と物足りない作品にも思えてしまう。
しかし、見終わった後に、一体どういう意味だったのか、と考え出すとゾっとする。
主人公の子は、人を殺すことも自分を殺すこともためらわれない危険な子供だが、かわいい子だ、フランスの街並みや風景もキレイだな、などと自分は外側ばかりに気を取られていた。
そんな自分の頭を、後ろから思い切り殴られた気分だ。
この作品に出てくる人は、無意識に人を傷つける、人を不快にさせる人達で、それに気づかなかったお前もそうだ、と言われているようで、冷や汗が出る。
ハネケの作品は何作品か見ているが、舐めていた。
一挙手一投足、どんな細かなシーンですら、冷や汗をたらしながら集中して見ないと、何か大事なものを見落とす。
きっとそれでも全てはカバーできない。
ハネケが長年生きてきて培った哲学や、ヨーロッパの時事問題なども知らなければ、到底理解出来ない。
映画という体を取った、人間の感情を使った究極の謎解きクイズのような気もする。
一回見ただけですぐに全て理解できる人がいたら、それはもうハネケだろう。
いや、ハネケですら分かっていないことも含まれているかもしれないから、全部当たるなんてそもそもないかもしれないが。
ハネケは、この作品はファルス(喜劇、笑劇)である、とインタビューで語っているが、全然笑えない。
アンネの息子のピエールが溜まった鬱憤を、バーのカラオケでめちゃくちゃなダンスをして発散させているシーンは確かにちょっとクスッとさせられるが、そこだけだ。
むしろ作品全体を通して、あなたはこの悪に気づかないのか?とハネケにナイフを突きつけられてる感じがして、非常に怖い。
この作品を見て、人の本質は無意識に出ること、無意識を意識することがいかに大事なことかと思わされた。
この作品は、明らかにおかしい行動をしている人だけでなく、一見普通に見え、現実でもきっと特に何か言われることもなさそうな普通の人達に対する批判の方が強いんじゃないかと感じた。
アンヌとその婚約者、トマスだけでなく、彼らを取り巻く一般社会に対する批判、そして難民たちにすら問題を提議している。
ハネケ自身は、社会風刺に興味はなく、現実主義者だ、と言っているから、特に問題を提議するつもりなどなく、ただそこに存在する現実を浮き彫りにさせただけなのだろうが。
分かりづらい家族の闇
この作品の主人公はエブという13歳の女の子で、人を殺したいという欲求を持ち、クラスメイトを殺そうとしたり、好きではない母親を毒殺した。
そしてエブが新しく住むことになった家にいたエブの祖父ジョルジュもまた、生きることに希望を見いだせず、どうやって死ぬかばかりを考え、死にとらわれている。
最終的にこの二人の利害が一致したのか、それぞれの欠けたピースがハマったのか、この二人の不思議な一致がメインではあるが、この二人を作り出し、この結果に至らしめたのは彼らの家族や社会の影響が大きく、この結果がこの作品の登場人物全てにとってのハッピーエンドである、とも言わんばかりの皮肉なラストだ。
この二人は比較的分かりやすいかもしれないが、他の家族のマイナス部分が少し分かりづらい。
この一家ははたから見たら一見誰もがうらやむ裕福な家庭だが、そうではない。
トマは自分の強烈な性癖を隠して浮気しながら、表向きは良い父親、旦那を演じている。
トマの姉のアンヌは、表向きは家族や会社を大事にする面倒見の良い女社長だが、全てにおいてうまくいくことを優先し、深く踏み込むことはない。
アンヌが一番わかりづらいかもしれない。
アンヌには弁護士の婚約者がいて、会社の現場でおきた事故の被害者の弁護をその婚約者が引き受け、示談交渉は簡単に進み、示談が成立したあと、その弁護士とすぐに手を繋ぐ。
被害者のことは何も考えていないとも言え、その場をやり過ごせばそれで良い、という性格に見える。
やけになっている息子や、犬に噛まれた執事の子供を気づかいはするが、本当に心配しているかは不明で、うわべである。
特に悪いことをしているわけではないし、普通の人、むしろ良い人にも思えるけど、ガツンと来る人間らしさのようなものが欠けている、こういうアンヌのような人間が、一般社会の大多数を占めていると思う。
悪人ではない、しかし、これ以上向上していくわけでもない、人間ってきっとこんなものでしょと、考えを無意識に固定してしまっている、分かりづらいステレオタイプに縛られた人達。
一方ピエールは、仕事で責任を取らされ、被害者に謝りに行ったが殴られたりして、やけになってバーで踊りながら熱唱したり、仕事をすっぽかしたり、比較的分かりやすい、可愛げのある若者像だ。
と思いきや、ジョルジュの誕生日パーティーで、モロッコ人メイドを突如大声で大げさに紹介し出したり、アンヌの婚約パーティーでも外にいたラフな格好をした黒人青年たちを勝手に会場に招き入れたり、その場をいきなり変な空気にさせる。
彼はきっと、人種差別をせず有色人種を受け入れようとするのは良いが、その受け入れ方もかえって不自然である人達の代表として描かれているんじゃないかと思う。
日常に染み込む人種差別
この作品は、カレーという、難民キャンプが問題になっているフランスの都市が舞台であり、それを反映してか、あからさまでない人種差別の描写がいくつかある。
ロラン家に仕える住み込みのモロッコ人メイドのラシッドとその妻ジャミラは、ロラン家に献身的に尽くしているが、ある日娘がロラン家の番犬に足を噛まれてしまう。
それを聞いた医者のトマは、その娘の足を診断するが、軟膏を渡すと言って診断を終了してしまう。
ジャミラは、狂犬病になったらどうしよう、などと言って、ちゃんとした治療を求めるが、トマは大丈夫だと優しく言って聞かせる。
ジャミラの夫のラシッドも、きっと犬は傷つけるつもりはなかった、というようなことを言ってジャミラをなだめる。
そして、トマの姉のアンヌも様子を見に来て、ケガをした女の子をなでて優しくいたわる。
このシーンは、一見すると何も起きていないように感じる普通のシーンだが、トマがもし自分の娘にも同じ対応をするのかどうかは疑問だ。
犬に噛まれた時の正確な治療法は知らないが、傷口が感染して狂犬病や破傷風になる可能性もあり、破傷風ワクチンを患者に打ったり、場合によってはレントゲンを取って傷の状態を確認することもあるようだ。
ジャミラが心配するのももっともである。
それなのに、軟膏を渡すだけで終わるというのは、本当に彼らの娘を心配しているとは言いがたい。
仮に狂犬病などのワクチンを犬自体に打っていることをトマが知っていたとしても、自分の娘ならば念の為病院で精密検査を受けさせるんじゃないだろうか?
無意識的に適当になってしまっていて、もっといえば差別がそこにあるとも言える。
差別とは無意識に生まれるものだろう。
姉のアンヌも同様で、表向きは優しくいたわっているが、病院に連れて行こうなどとは言わず、自分が心配していることを提示しただけに過ぎない。
彼らは表向きは優しい雇い主だが、表面的だ。
父親のラシッドはラシッドで、そんな彼らに疑問を持たず服従してしまう、差別される側も普通の振る舞いではない、ということも描いているシーンだと思う。
雇われているんだから、大事にしたくない、迷惑をかけたくないのは分かるが、そう思うのもどこかで線引きが必要だろう。
雇用関係にはあるが、彼らは奴隷ではない。
終盤のアンヌの婚約パーティーでも、移民達に対する差別意識が描かれている。
ピエールは、外にいた移民と思われる黒人たちを急にパーティーに招き入れようとし、会場はざわつく。
部外者をパーティーに参加させるというこのピエールの行動は、上記で述べた通り、差別意識があることの裏返しの不自然な行動であると思う。
仮にピエールが仕事がうまくいかずやけになっていて、アンヌに対する嫌がらせでやった行動だとしても、嫌がらせで彼らを使うというのは、彼らを下に見ているからだろう。
しかし、それを見たアンヌもまた「気分を害してしまい申し訳ない」と会場の客に説明するが、それもまたおかしい。
ホームレスを招き入れたなら分かるが(それでも招き入れられた側には失礼だが)、彼らは普通の格好をした移民、もしくは難民と思われる人達で、なぜ彼らが入ってきただけで客が気分を害した、と決めつけたのだろうか?
そしてその一連の流れを見ていた客達もまた、招き入れてしまったんだからしょうがない、とポジティブに歓迎するわけでもなく、あからさまな拒否反応を示すわけでもない。
見かねたアンヌの婚約者が彼らを会場に入れることにするが、その一部始終を傍観しているだけだ。
拒否反応を示したらそれは差別と捉えられかねないから、そう思っても顔に出せないのかもしれないが、もし差別を全くしていないなら、単純に「部外者は入れないでくれ」と主張することは出来るだろう。
差別はしていないけど、もし差別と捉えられたら面倒だ、と自分の本心とは違う世間体を気にしだしたらきりがない。
しかし、差別はしていない、ルールを守ってほしいと言っているだけだ、と表向きは言いながら、心の中ではめちゃくちゃ差別している汚い人間もいるから、それと一緒にされても困る。
だから何も言わない、反応しないのが得策ということになってしまうんだろう。
そして、招き入れられる移民と思われる青年達もまた、自分の意志がなく、されるがままにこの不自然な状況を受け入れてしまう。
仮に始めて来た国だとしても断ることは出来るし、何か恩恵を受けられるなら受けたい、という気持ちが、普通感じるはずの違和感を麻痺させている、とも言える。
平たく言えばお互いにどうしていいかわからない、ということだが、それは都合の良い言葉で、もう少しやりようはあるだろう。
このシーンもまた、差別する側、される側も自然ではない、ということを、そのままリアルに映し出しているんだろうと思う。
このパーティーの客たちは、カレーが抱える移民問題を積極的には解決しようとしていない一般大衆、もしくはヨーロッパ全体の態度を表しているんじゃないか?
そんなこんなで、それを見ていたジョルジュは、自分の家族たちとこの社会に呆れ、エブに頼んで外に連れ出してもらい、海岸で自殺を試みる。
その様子をエブがスマートフォンで撮影し始め、物語は晴れてハッピーエンドを迎える。
なぜジョルジュがボケたふりをしていたのかというと、その方が自殺をするのに都合が良かったからだろう。
ボケたふりをして、車でどこかに突っ込んだり、飛び降りたりしても、悲しい事故として処理され、頭がしっかりしている状態のあからさまな自殺よりも家族の名誉もあまり落とさずにすむ。
ちなみにスイスに行きたがっていたのは、スイスに行けば安楽死出来るからだろう。
だから、ジョルジュなりに自殺するタイミングを図っていたのだろうが、目の前の光景を見て、気を使うのが馬鹿らしくなったのかもしれない。
その前から、移民と思われる通行人達や、家にいつも来る理容師に自分を殺してくれと頼むなど、車での自殺が失敗してから、雑になっている部分はあったのだろうが。
最後は孫に自分を殺させようとする、というとんでもない行動に出る。
変わろうとしない社会への皮肉
最後のシーンで、エブはジョルジュに車椅子を海に入れるよう頼むが、エブはどうしていいか分からず、いざやれと言われると殺すことはできなかった。
そう考えると、エブは母を殺し、同級生を殺そうとした過去もあるが、殺人に魅了された極端に変質的な人間ではないのかもしれない。
慕っている父や、自分を理解するジョルジュを手に掛けようとはしていない。
自分にとって目障りな人間に対してやっていたんじゃないかと思う。
ちなみに、ハネケはこの作品のモチーフになった、母親を毒殺する様子を実況中継していた日本の事件を引き合いに出し、殺す様子をSNSに上げるのは、誰かに叱ってもらいたい、罪の意識があるのではないか、と言っている。
エブがジョルジュが死のうとする様子を撮影していたのは、ジョルジュが勝手にやったことを撮影していただけなので、それには当てはまらなそうだ。
だから、最後のシーンは、エブが撮影する理由は特にないが、ハネケがこれを喜劇だと言っているように、オチをつけるために作られたんじゃないかと思う。
なのでこの作品は、エブが主人公でジョルジュと結びついて終わる、という流れだが、その二人の特殊な性質や不思議な一致などよりも、むしろ、社会のおかしさを主に浮き彫りにしたかったんじゃないかと思う。
一見普通に見える人達の方が改善の余地がなく、仕方もわからない、根深い問題である、と言っているようにも見える。
ちなみに、ハネケがこの作品を作った時は75歳くらいだが、未だに切れ味が鋭くて、非常に怖い。
普通年を取っていくと、いくら名監督でも、往年のような輝きはなくなっていく気がするが、この作品は全くそうは感じさせない。
むしろ、まだまだ余裕があるようにも感じる。
きつい暴力描写や、見ていて気分が悪くなるような行動の直接的な描写などもほとんどなく、隠されたメッセージの強さも含め、ハネケの作品にしてはこれでも大分マイルドではあると思う。
ハネケは喜劇である、とも言っているし、比較的力を抜いてこの破壊力なら、底が知れない。
この作品は面白いとか、面白くないとか、そういう次元ではくくれない。
面白いと言えば面白いし、面白くないと言えば面白くない。
しかし、色々と考えさせられる所が多々ある。
そういう意味で、普通のいわゆる映画とは一線を画する、映画というジャンルの中で極めて珍しい、希少な作品だと思う。
コメント