硫黄島からの手紙 英題:Letters from Iwo Jima
監督-クリント・イーストウッド 141分 2006年
脚本-アイリス・ヤマシタ
出演-二宮和也、渡辺謙、伊原剛志、加瀬亮、中村獅童、他
映画「硫黄島からの手紙」の簡単なあらすじ
2006年、かつてアメリカ軍と太平洋戦争時に屈指の激戦が行われた硫黄島で、当時の日本軍が自分の家族に宛てた手紙が大量に発見される。
太平洋戦争末期、アメリカ軍は日本本土爆撃において、戦略的に重要な拠点となるであろう小笠原沖の硫黄島を占領するため攻撃を開始しようとしていた。
硫黄島に展開する日本軍は、アメリカに住んでいた経験もあり、部下からの挨拶を強要しないなど、その当時の日本軍にしては合理的な考え方を持っていた栗林中将が指揮を執ることになった。
アメリカ軍の攻撃を予測していた栗林中将は、島の独特の地形を利用し、圧倒的な兵力のアメリカ軍を返り討ちにしようと試みるも、苦戦を強いられる。
硫黄島に駐留する日本軍は、軍人だけでなく元憲兵隊や、パン屋であった一般市民など、様々な人間が徴兵されていた。
栗林中将を始め、それぞれに家族がおり、本当の気持ちも言えない環境の中、彼らは自分の死期を覚悟し、秘かに手紙をしたためていたのだった。
“今すぐに見るべき!☆5”理由と考察、その感想
日本人だらけだが、日本映画ではない
クリント・イーストウッドが監督の作品なので、いつかは見ようと思っていたが、渡辺謙や二宮がメインキャストだし、ほぼ日本人俳優で作られているので腰が重く、放っておきっぱなしにしていた。
しかし、あのクリント・イーストウッドだし、見なければならない、と見てみたら、驚かされた。
日本人が主役で、日本人の役者ばかりなのに、全然見ていられる。
いわゆる最近の酷い日本映画では全くなく、日本映画特有の全編にはびこる演技のあざとさ、安っぽさ、学芸会感というものがない。
イーストウッドは日本人じゃないから日本映画にならないのは当たり前と言えば当たり前だが、イーストウッドは日本語がペラペラな訳でもないし、さすがのイーストウッドでも日本人俳優をうまく使うのは難しいんじゃないかと思っていた。
イーストウッドをなめていたわけではなく、それだけ日本人俳優の酷さを嫌というほど知っているからだ。
それなのに、見ていられるどころか、この作品ほどに、当時の戦時中の日本兵の本当の内面を繊細に描いた作品は他にないんじゃないかとすら思う。
監督さえ良ければ、日本人俳優でもやればできる、捨てたものじゃない、と思わされると同時に、クリント・イーストウッドという人間は、なんて深い人間なんだと思う。
本当は日本人監督がやらなければいけないことを、外国の監督が、しかも今までになかったような深い描き方で、当時の日本人の辛さややりきれない思いを見事に代弁してくれている。
言葉の壁を越えたその演技指導の妙技もさることながら、日本人以上に日本人のことを理解してくれているその深さに、涙が出る。
きっと、深い人間になればなるほど、人の気持ちがどんどん分かるようになってきて、もう言葉を超えた所で人のことを理解できるから、演技指導での言葉の壁なんて大したことないだろう。
国籍など関係ない、この映画を作れる人が作ってもらえばそれで良い。
きっと、他の日本人監督では、こんな風に描くことはきっとできなかっただろうと思う。
二宮の絶妙なキャラクター
主人公に二宮を選んだ所も、実に良い。
なんで二宮が?と思っていたが、見てみると、もうこれは二宮以外にいないんじゃないかと思うくらい、よくはまっている。
がたいが良いわけでも背が高いわけでもなく、顔だちも日本人らしく、だが繊細な気持ちを持っていて、それを表に表現もできるこの二宮という人間をよくイーストウッドは見抜いたと思う。
ちょっと皮肉めいたことを言う感じのキャラクターが、今までの日本の戦争映画にはなかった、だがきっとこういう日本人ももちろんいたであろう、親しみを抱くキャラクター。
日本人らしく、かといって斜に構えていて軍に服従している訳ではなく、ものごとを冷静に見ている、クリント・イーストウッド作品でよく出てくる主人公の日本版といった感じ。
イーストウッドはよく見抜いた、というか、もう人の内面しか見ていないから、見ればすぐわかるのかもしれない。
がたいが良くなくても、日本人でもなんでも、感情表現がしっかりできれば主人公にはなれるし、一本映画だってちゃんととれるんじゃないか。
クリント・イーストウッドがこの作品を作ったことで、日本人俳優に可能性を感じさせてもらっただけでなく、ダメな日本映画ばかり作っている日本人監督は本当に何をやっているんだとも思わされる。
俳優が悪いんじゃない、日本人俳優だって使い方によってこんなに映えるんだから、演技指導や演出をする日本人監督が何にも分かっていないってことを、逆にまざまざと見せつけられたことにもなってしまった。
色んな意味で、クリント・イーストウッドがこの作品を撮った意義は、日本の歴史にとっても、日本の映画界においても大きな意義があることに間違いない。
二宮演じる西郷一等兵は、戦争することを良く思っていないどころか、むしろ、馬鹿げた行為のように捉え、当時の日本兵が持っていたねじ曲がった愛国心のようなものを持っていない、珍しい日本兵像である。
赤紙が来たから参加せざるを得なくなった自分のこの理不尽な状況すら、皮肉を言いながら客観的に俯瞰し、それでも表向きは、従っているように見せられる賢さもある。
そんな西郷も、最終的には一緒に戦ってきた栗林中将の後に引けない日本兵としての覚悟や生きざまに触れ、栗林亡き後、栗林の思いが詰まった銃をアメリカ兵が持っていることに気付くと、持っていたシャベルを振り回して、それを取り戻そうとする。
言ってみれば、西郷がアメリカ兵に対して初めて自分の意思で向かっていった場面であり、アメリカ兵で敵だから、ということではなく、栗林の尊厳を守るために闘おうとした、という、複雑な立場の日本兵の気持ちがよく表れたシーンで、実に心揺さぶられる。
西郷は戦争には反対だが、栗林の気持ちもよく理解できた。
日本兵は投降をせずに死ぬまで戦う気持ちの悪い兵隊だと思われがちだが、実際にそういう心まで洗脳されてしまっていた人達もいたことは確かだろうが、根底にはやり始めたからには最後まで貫き通すという美学があり、それは裏を返せばこの上ない悲しみであり、日本兵だって人間で、本当は皆が皆戦争がしたかったわけではない。
栗林も家族がいて本当は帰りたかったが、もう後戻りは出来なかった。
そんな日本人ですら分かっていないような日本人の気持ちを、クリント・イーストウッドは理解している所が、なんとも深いと思う。
その深さに感動する。
西郷は、クリント・イーストウッドが急遽二宮を見て作った役だったらしいが、間違いなくなくてはならない人物像で、西郷のおかげでより戦争時の日本兵の複雑な気持ちが深く表現されている。
元憲兵の清水上等兵が西郷に自決を迫った時、西郷が「命がなければ戦えないから、自決するのは違う」と、うまく諭してかわすシーンも、ポジティブなメッセージであり、きっとこういう人もいた、いてほしい、と思わしてくれる、今までにない日本兵像で面白い。
また、最後に西郷は死なずに助かるあたりも、変にお涙頂戴にせずに、ポジティブなハッピーエンドで良い。
西郷だけでなく、伊原剛志演じる西中佐のアメリカの捕虜を労わる姿や、加瀬亮演じる清水上等兵の憲兵隊時代に犬を助けようとしたエピソードなど、こんな日本兵もいたんだ、という、ステレオタイプでない日本兵像が随所に散りばめられていて、良い。
もう一人の主人公渡辺謙は物足りない
渡辺謙演じる栗林も悪くないが、物足りなく感じる。
家族思いで、兵隊に理不尽な命令を下したりせず合理的、洗脳されている感じもせず、あくまで日本側の隊長としての命を全うしようとした栗林。
たまたま自分の仕事が日本兵の隊長だったから、その仕事を全うしようとしただけで、本当は普通の優しい人間なんだ、というのが伝わってくる。
こんな後戻りが出来ないところまで追い込んでしまう戦争というもの、特に当時の日本軍の突出した狂気性や卑劣さは、およそ人権を無視したものなんだろうと思う。
もし、日本が戦争をしなければ、狂った大本営などがなければ、栗林は家族と共に楽しく過ごす、別の人生があったのかもしれない。
栗林は硫黄島で全てを受け入れ、それなりに最後を迎えたわけだから、彼なりに筋を貫いて命を全うしたことは確かだが。
日本軍の張らなくても良い不要な見栄のために、あまりにたくさんの人生が狂わされてしまっている、それは国全体がそういうムードだったからというのもあるが、それは、自国民も含めた大量虐殺に等しい。
栗林を通して、そういった場所に立たされてしまった者の悲哀というのはよく感じれた。
しかし、渡辺謙はどこか嘘っぽく感じてしまう。
二宮は本当に皮肉っぽい人間、機転が利くような人間に見える演技なのだが、渡辺謙はどこか演じている感が付きまとっていて、良い役でも薄い印象になってしまう。
正直、この作品に限ったことではなく、渡辺謙を見て心動かされたことはない。
身長も高くて格好良くて、ハリウッドで名をあげ、英語もしゃべれるようになったけど、中身はどうしても本来の軽さが抜けないから、深い役は出来ない。
ただ重厚な顔を作り、重厚なしゃべり方をしたところで、全体を通してみればすぐに本物じゃないことが分かってしまう。
この役に関しては、渡辺謙にやらすくらいなら、本当にもっと良い役者が日本に山ほどいたと思う。
クリント・イーストウッドは、この渡辺謙の薄さを見抜いて、抜擢しないでほしかった。
渡辺を使うなら、もっと軽い部分を抑えて、しゃべり方を矯正しなければ。
栗林はいわゆる日本軍の軍人の固いしゃべり方ではなく、普通に、ラフにしゃべる人なのは分かるが、渡辺の演じ方は、無理にニコニコしようとしてちょっと嫌味な変な人に見える。
もっと力を抜いてれば良いのに、普通である部分が普通ではなく、不自然に見えてしまっている。
クリント・イーストウッドはそこの違和感を取り除かなければいけなかったが、日本人だから、こんなものなのか?と分からなくなってしまっているのか?
日本人から見ても不自然で、その不自然さが、渡辺謙に対してどこか親しみを抱かせない要因であると思う。
ハリウッドでよく使われている、というだけで、盲目的にすごいと思っている人は多いのかもしれないが、薄いものは薄い。
しかし、これは渡辺謙が悪いのではなく、クリント・イーストウッドが悪い。
きっと渡辺に任せすぎたからこうなったんだ、もっときつめに演技指導してやれば良かった。
栗林役がもっと感情移入できる演技が出来る役者だったら、もっとすごい作品になっていただろうと思うから、それだけにもったいないと思う。
お金のかけ方が違う
やはり嘘くさくない理由として、お金をかける所にかけているのはあると思った。
アメリカ兵との浜辺での戦闘シーンしかり、山での戦闘シーンしかり、うわ、ちゃっちいな、とは一切感じさせない。
最近の日本映画であれば、すぐ、なんだこの作り物丸出しのCGは、とか感じて萎えてしまう。
実戦の闘いの再現だって、出ている人も少ないし、爆破もちゃっちいし、こじんまり抑えて済まそうとしているのがすぐにわかる。
それは、単純にお金がないから、よりも、こだわりがないからなんだと思う。
お金がなければ作らなければ良いし、もし作るのであれば、黒澤明のように、家を抵当に入れてでもどこかからお金を引っ張ってきて、クオリティーを下げずに作れば良い。
お金はないけど、無理やり作ってチープになりました、なんて世界はないのに、それを日本映画はやりまくっている。
本当は何が重要でそうでないかが分かっていないだけなのに、クオリティーの低い理由を、お金がないせいにすり替えている事にも気が付いていない。
きっとお金があっても、今の日本人監督は良いものは作れないだろうと思う。
黒澤明のように、クオリティーを下げずに作ることが第一で、そのためにはお金が必要だから、じゃあどうやって用意するか、という思考になるほどこだわりや情熱を持った監督などいない。
そういう意味で、クリント・イーストウッドはポイントを良く抑えているから、スケール大きく作ってもうまくいくんだと思う。
ついつい日本映画と比べてしまうが、そもそも違うんだから、比べてもしょうがない。
原案でポール・ハギスも絡んでいるし、もうそりゃ太刀打ちできない。
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