ドライブ・マイ・カー 英題:Drive My Car
監督-濱口竜介 2021年 179分
脚本-、濱口竜介、大江崇充
出演-西島秀俊、三浦透子、霧島れいか、岡田将生、パク・ユリム、ジン・デヨン、ソニア・ユアン、他
映画「ドライブ・マイ・カー」のあらすじ
俳優で演出家の家福悠介と、脚本家で女優の妻、音は、幼い娘を病気で亡くしてしまったが、それ以降お互いを支えながら仲睦まじく暮らしていた。
悠介はいつも舞台への行き帰りで、脚本を音に読んでもらった音声のテープを、長年愛用している車の中で聞くのが日課になっている。
ある日、乗る予定だった飛行機が急遽欠航になり、空港から家に引き返した悠介は、妻がリビングで若い男性と不倫している現場を目撃してしまう。
悠介はそのことには触れることなく、いつも通りの生活をしていたが、妻から話があると言われた日の夜、悠介が家に帰ると音はくも膜下出血で亡くなっていた。
二年後、悠介は広島の演劇祭で舞台を演出することになり、製作者側が用意した、渡利みさきという専属ドライバーが宿と舞台の送り迎えをすることになる。
最初はセリフ覚えの邪魔になると拒んでいた悠介だったが、みさきの丁寧な運転技術に感心し、承諾する。
また、オーディションでは、かつて家で音と不倫をしていた俳優が現れ、主役のワーニャおじさんに抜擢することになるが・・・。
“つまらない☆1”理由と考察、その感想
なぜこんなにつまらないのか?
アカデミー賞国際長編映画賞、カンヌ国際祭脚本賞を受賞しているこの作品。
結論として、非常につまらなかった。
また、いつも通りの日本映画。
背伸びをしたような自己陶酔的なセリフ、ストーリー。
一番引っかかるのは、その主要キャストの演技の下手さ。
なぜ、つまらなかったのか、詳しく書いていきたいと思う。
私は日本映画のアンチではない。
世界で日本映画がたまたま突出して低いだけである。
面白いものは面白い、つまらないものはつまらない、これは後者だっただけ。
出演者や監督のファンの人は、これ以上読まないでください。
惹きつけられない冒頭30分
まず、冒頭の30分で全く惹きつけられなかった。
高層マンションの一室のベッドシーンで、ポエムのようなセリフを、演技演技した感じでつぶやく女性。
映像単体としてはとても美しいシーンだが、無理して背伸びして、格好つけているリア充カップルにしか見えない。
セリフも所々子供が観られないような卑猥な言葉を使い、それも相まって観ていられない。
きっと、外国人だったら、変には見えないんじゃないか?
音がポエムのようなセリフを言っているのに対して、リアルに悠介が反応するとしたら、何言ってんだこいつ、とちょっと引く感じじゃないかと思う。
それを普通に受け入れている夫も変だ。
二人とも、とても自然には感じられず、冒頭から面食らった。
そして、若い俳優と不倫をしていた音は急にくも膜下出血で死んでしまい、2年後から物語がまたスタートするが、この時点で、音に対して何の思い入れもない。
あんなに素敵な人が不倫をしていたというショックもない、不倫しそうな感じだから。
その人が死んだからなんだ?という感じ。
この冒頭の30分くらいで、音という女性を魅力的に、ミステリアスに魅せなければ、この映画はもう成立しない。
しゃべっている感じも演技にしか見えないし、セリフを言っていて、悠介に対する行動もうわべに見える。
何を考えているか分からないミステリアスさはある、しかし、薄い魅力。
若い俳優からしたら、セクシーな感じに見える脚本家兼女優と言う感じで、そういうフェロモン的な魅力は違うぞ、と思う。
例えば、深津絵里とか、永作博美みたいな、美人でナチュラルさに魅力がある献身的な妻が不倫していた、というのならまだ衝撃はある。
なんでだ?と気持ちが揺れ動いたり、見て見ぬふりしてこの生活を続けようという夫の気持ちもまだ理解できる。
しかし、音はただのすきものにしか見えないので、不倫しそうでそのまま不倫されたという感じにしか見えない。
キャスティングミス、いや演技指導ミス、もしくはどっちにも気づいていないのかもしれない。
西島演じる悠介も特に魅力がない。
西島秀俊は、基本的にずっとナチュラルではなく、ずっと演技している、いつもセリフを言っているようにしか見えない。
彼は日本のドラマや映画で非常に重宝されているが、良い意味ではなく、どんな人間か分からない。
何を演じても同じ、役の設定が変わっているだけで、全部同じ演技、感情の起伏もよく分からない。
悪く言えば抑揚のある棒読み。
悠介が音の不倫を見て見ぬふりをしたのは、ショックを受けているけど必死に隠している、という深い演技には見えず、ただ呆れている、考えないようにしている、無感情に見える、もう諦めているように見えるので、祐介にも気持ちを持っていかれない。
なので、最初の30分がもうこんな感じで、フリをが効かない前フリをしているので、今後の展開もきっと跳ね上がりはしない、という感じだ。
3時間よく見たと思う、自分をほめたい。
監督はどうしても短く出来なかった、と言っているが、これならもっともっと短く出来る。
美しい日本の風景
この作品には、美しい日本の風景、東京の街並み、瀬戸内の山と海、北海道の雪道など、ドライブを通してきれいな街並みがよく映し出されている。
日本のプロモーションビデオではないが、日本の風景の良い所が表現できていると思う。
そういう意味では映画らしい。
ただ、そういった風景を見るために見た方が良いと言うほどではない。
後、長回しを多用しているが、それが映像自体に独特の緊張感を与え、奏功している。
初期のたけし映画のような雰囲気も感じるこの撮り方自体は良いと思う。
ただ、肝心の中身がないので、やっぱりそういったテクニックだけあってもダメなんだ、と再確認させられた。
撮影テクニックがあっても、脚本はノーベル文学賞級でも、演技で台無しになってしまう。
題名の意味
「ドライブ・マイ・カー」=「Drive My Car」=「私の車を運転する、運転しろ」の意味は、もちろん普通には、悠介が愛用する、スウェーデン製のサーブ900ターボという車を運転することだがもう一つ意味があると思う。
その車は悠介が長年愛用しており、癖があり、音に吹き込んでもらった音声をいつも聞いて自分の舞台の台詞を練習する場で、つまり悠介そのものなんだろう。
みさきの話を聞くまで、自分の心を見ようとしなかった悠介は、みさきに自分の車を運転してもらうと同時に、自分の心の奥底も見て回った、ドライブした、ということだろう。
知っているつもりでも、全然知らなかった、自分を探求するという意味とかけていると感じた。
悠介の恥ずかしいセリフ
悠介は舞台での演技が下手なのに、チェーホフには自分を差し出さねばならないから演じたくないとか、ドストエフスキーがどうとか、こいつは何を言ってるんだと思った。
こっぱずかしいセリフの頂点だと思う。
こういういつも同じ演技しか出来ない人間が、著名な俳優である、舞台を演出する、という滑稽な構造に、誰か気づいている人はいないのか?
せめてもっと、そういった戯曲を実際に普段から演じ、精通しているリアルな舞台俳優にやって欲しかった。
彼がもし精通していたら、もう訳が分からないが。
でも、きっとこれを観るほとんどの人が悠介の演技論を聞いたり演出を見て、「そういうもんなんだ」とか、もしくは「なんかこの人格好良い」とすら思うんだろう。
逆に、広島の舞台のプロデューサーの女性や、韓国人の通訳の人の棒読みは素人っぽくて良かった。
素人の演技だが、いつも同じ演技で固定されている西島よりも、よっぽど味があって良い。
むしろ、出る人全員がこの二人のような感じの演技だったら、観ていられたかもしれない。
演技することに慣れている演技、こなれた演技なんていらない。
後、高槻と仲良くなる中国人女優や、手話で話す韓国人女優も自然で良い、日本人より全然良い。
なんで、日本人って作ってしまうんだろう。
印象に残った高槻、みさきの台詞
岡田将生演じる高槻耕史の台詞の一つがとても印象に残っている。
車の中で、悠介と高槻が、それぞれ音との記憶を語り合うシーンで、高槻が悠介に言ったセリフだ。
「どれだけ理解し合っている相手でも心をそっくりのぞき込むなんて無理、自分が辛くなるだけ」「でも自分の心なら努力次第でしっかりとのぞき込むことが出来る、やるべきことは自分の心と正直に折り合いをつけていくこと」「本当に他人を見たいなら、自分を深くまっすぐ見つめるしかない」というようなことを言った長台詞だ。
なるほど、とハッとさせられる言葉だと思う。
他人を知りたい、理解したい、と誰しもが思うが上手くいかずに傷つくことが人間関係には往々にしてあるが、そんなものは無理で、エゴであるとでもいわんばかりの言葉だ。
むしろ、他人の全部は見えなくても、見えている少ない部分から推測したり、それに対して自分がどう思うか、どうしたいのか、誤魔化さずに自分が本当に思っていることを探すことが重要だ、ということ。
むしろそれしか出来ない、自分をよく理解することしか人はそもそも出来ないのに、それすらやろうとせずに他人を理解したいなんて、無理だしおこがましいという。
独特の長回しの撮影で、後ろに景色が流れる夜の車の中で、高槻が長いセリフを悠介に諭すように言うシーンは、変な緊張感があり、ちゃんと聞いてしまった。
ただ、言葉が非常に良いが、高槻の口からは聞きたくなかった。
あんまり説得力がない。
調子に乗った若者が、どこかで知った台詞を言っているような感じだ。
もっと達観した感じの年寄りとかが、悠介に対して言う感じが良かった。
実際、高槻は口だけで、自分の感情を抑えきれずに一般人に暴行を働いた。
それは自分の心を深く真っすぐ見つめることと程遠い。
それに、舞台で警察に名前を呼ばれて返事をした時、とぼけて軽く返事をした感じもして、誤魔化しているように感じた。
というか、ずっと舞台のみんなに隠すという嘘もついていた訳で、悠介に言ったことは全く実践していなかった。
この高槻も薄い人間で、もっとおっと思わせる演技は出来なかったのか?
終始軽い兄ちゃんじゃないか。
そういう役だからしょうがないか。
鈴木亮平とかくらい軽くない方が、不倫が発覚したり、事件があった時とかにひっくり返って良かった気がする。
後は、三浦透子演じる渡利みさきが自分の生家の前の告白で、自分の母の、8歳の子供のような二重人格の人格が好きだった、それは母が演技していようが本当の二重人格だろうが、母の良い所が詰まっていた、というセリフ自体も良かった。
ただ、みさきもセリフを言っているだけで、演技の枠を出ず、心は動かされなかった。
みさきも悠介も演技演技していて、2人で抱き合う所は、なんとも恥ずかしい。
抱き合う所まで高まっていないのに抱き合っているように見えるので、あれはない方が良かった。
抱き合う所まで演技で持って行けていない。
みさきのキャラでもないと思う。
終盤の大事なシーンで悠介の棒読み
悠介もみさきの生家で、自分が自分に嘘をつき続けてきたことに今気付かされた、ちゃんと傷つくべきだった、と言っていたが、すごく大根だと思った。
今ハッとして気付いた感じもしない、セリフを言っているだけに感じた。
彼は、演技しているつもりなんだろうが、みさきによって心が動かされている感じがしない。
大事なシーンなのに、これは酷いと思った。
悠介は人の演技の演出をする前に、自分の感情をなんとかしないといけない。
というか、人の心を分析する専門家の俳優兼演出家が、不倫されて傷つき、腹が立っているのを誤魔化していたことすら分からない、というのは情けない。
そんな情けなさも含めて、悠介はもっとボロボロと泣くぐらい悔しさを爆発させて欲しかった。
何を、淡々と言っているんだ、とも思う。
高槻が暴行容疑で捕まり、結局悠介がワーニャおじさんをやることになるが、実際のその演技を見て、物足りないこの上なかった。
祐介は、今まで自分がワーニャ伯父さんを演じるのを避けてきた理由は、自分を差し出すことにならざるを得ないから、それに耐えられない、と言っていた。
このシーンは、そんな悠介が、高槻に本質を突かれ、みさきから母への思いを聞かされて、ここ数年で初めて自分と向き合った悠介が、自分の生き方とワーニャ伯父さんの境遇を重ねて、まるで素の自分のことであるかのようにワーニャ伯父さんを演じることが出来たシーンだろう。
色々体験して、ようやくワーニャおじさんになれた悠介の演技は、見ている者を強く引き込むほどに鬼気迫り、気持ちが入っていなければいけない。
今までの話がぼやけていても、フリが効いていなくても、最後の砦のここで、すべて回収される。
まだこの作品が見ていられるものになる、これがやりたかったのか、と思える可能性のある大事なシーン。
だけど、そうじゃない。
いつもどおりの西島秀俊、気持ちが強く見える訳でも、めちゃくちゃ大根でもない、抑揚のある棒読み演技。
なるほど、これは酷い。
脚本だけ売って、他の国でリメイクしてもらえばいい、これより明らかにマシだろう。
せっかくの見せ場が台無し、せめてこのシーンは成功しないと。
作ってる側は、それすらも何も分からなかったんだろう。
映画の中の観客もこのシーンがすごいのかどうかもきっと分かっていない、そして、この作品が海外で賞を取ったからってこの作品を見て、良かった、面白かったと言っている実際の客も。
ラストシーンの意味、海外でウケた理由
最終的に、みさきは韓国に行き、悠介の車に乗り、韓国人夫婦の家で見た様な犬を飼い、普通に韓国語をしゃべっていた。
これはどういう意味か?
悠介に車を、韓国人夫婦に犬をもらったのか、それとも悠介と付き合うことになって車ごと出張先の韓国に行ったのか、それとも韓国でも悠介にドライバーを頼まれただけなのか、そしてみさきは韓国の血が入っていたのか、分からない。
私の頭では分からないし、もう何だっていい。
どの結果も、もう感動しない、今までがグズグズだから。
だから、この真の結末はどうなんだ?と気にしても意味がない。
何を聞いてもああ、そう、というだけ。
終わり方が分かりづらいアメリカン・サイコのような跳ね上がり方はしない、かといってキッズリターンでもない。
この映画は、冒頭でも触れた通り、アカデミー賞国際長編映画賞、カンヌ国際祭脚本賞を受賞している。
なるほど、確かに、この脚本は、日本人が観たら全然リアルじゃない、こっぱずかしい自己陶酔的な、ポエムを散々全編に散りばめた様な、見ていられないつまらないものだが、これを英語の字幕で見たらまた違うんじゃないかとは思った。
それは、きっと小説を読んでいるような感じで、日本人という理解できない感情の使い手の良し悪しを判断できなくても、頭の中で補完できるんじゃないかと思う。
チェーホフだとか、ドストエフスキーとか、西洋でも評価の高い作家たちをフィーチャーしている、というのも好かれる要因の一つかもしれない。
これを英語圏で、もしくは海外でリメイクしたら、面白くなりそうな脚本ではある、感情の使い方が違うから。
だけど、日本人には間違いなく合っていない。
合っているように直せばいいが、直さずにそのまま出来ていない演技をさせているから、見ていられない。
合っていないことにも気づいていない。
脚本家の台詞は変えちゃいけないんだよ、とかそういう問題でもない。
村上春樹に怒られてでも、俳優が言えないなら言えるようにアレンジしなければ、もしくは、俳優にそのセリフにフィットさせるよう演技させなければ。
どちらもやらないで、何が役者だ、監督だ、演出家だ、脚本家だ、と思う。
ちなみに、私は村上春樹の小説は読んだことはないが、もし、この作品にあるようなセリフ回しなら、そりゃ海外では受けるだろうな、と思った。
実に文学的で、ナルシズムを感じさせるが、美しい描写が多く、オチも深い。
逆に、日本ではなんで村上春樹はヒットしているのか分からない。
普通の日本人とかけ離れた歯が浮くような格好つけたセリフばかりじゃないか。
これが、もし村上文学の特徴を代表して実写化された作品なら、村上文学は読まなくて良いから助かる。
この作品は、私の評価では最低評価の、“つまらない☆1”にしているが、もちろんただの個人的評価なので、気にしないでほしい。
この作品面白かった、という人達同士で大いに楽しく語り合えばいい。
ただ、この作品を見てなんか面白くなかったな、と感じた人がいたとしたら、その人が「ドライブマイカー観た?どうだった?」と友人に聞かれて、「なんかいまいちだった」と言ったら、「もう少し映画勉強した方がいいよ」とか「チェーホフって知らないの?」とか、「最後のみさきが韓国語しゃべっていた意味分からなかった?」とか、マウントを取られて苦々しい思いをするかもしれない。
むしろ、何が面白くないか言葉に出来ず、「なるほど、きっとこれは面白かったんだ、賞も取っているし」と悠介のように自分に嘘をついてしまったら最悪だ。
この映画のメッセージを理解していない、高槻に真っすぐに自分を見つめろ、と言われてしまう。
日本人って友達とか知り合いの前ですら、マイナスの意見ってあんまり言わない。
テレビでも、この映画作品、あの映画作品はいまいちだった、という寸評は聞いたことがない。
だから、賞を取ったから、有名だからだけで手を出すのは危険な作品である。
逆にぜひ観て欲しい。
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