「攻殻機動隊 SAC 2045(シーズン1・2)」が”物足りない”理由や考察、その感想

④物足りない☆2

待ちに待った攻殻機動隊新シリーズ

Netflixで配信している、攻殻機動隊2045のシーズン1と2を見終えた。

私は攻殻機動隊シリーズは好きで、今回はNetflixで最新作が見れるとのことで、シーズン1を試しに見てみたら、あれよあれよとシーズン2まで一気に見てしまった。

結論を言うと、全部見終えて、いまいちだった。

続けて見てしまう、ということは、決して面白くなくない、ということだが、見終えると、なんだったんだろう、思ってしまった。

なぜ面白くなかったのか、考えていきたいと思う。

シーズン1の序盤は、始まったというワクワク感があったものの、まだ様子見の感じでシーズン1を見終え、シーズン2の2話「CLOSE CALL / 覚醒しちゃいました」での9課とポストヒューマンの肉弾戦に目を奪われた。

さらに、シーズン2のエンドロール、millennium paradeによる「No Time to Cast Anchor」の曲に合わせた映像が、めちゃくちゃ格好良く、シーズン2には期待を持っていたのだが。

なので、今振り返ると、シーズン2が始まった数話あたりが、私の中でのこのシリーズのピークであった、と思う。

以前観た話と似たようなストーリー

今回のシリーズでは、ポストヒューマン、という人間を超えた新たな生命体とも呼べる脅威が9課に襲い掛かるが、根底のストーリー、難民が武装蜂起する、もしくは独自の思想をもったテロリストが国家転覆を図る、という話は過去の攻殻機動隊でもよく耳にする話だし、それにアメリカが介入して自分の失態を消すために核兵器もしくは、大量破壊兵器で住民丸ごと消そうとする、というのもどこかでよく聞く話しだと思った。

またこれか、と思ってしまった。

実はアメリカが絡んでいて、というのも、何度も聞いて来た話だ。

ポストヒューマンを絡めてはいるが、ポストヒューマンがそこまで掘り下げられている感じがなく、大枠のストーリーは今までと同じで、そこはあまり新鮮さがない話だと思ってしまった。

ポストヒューマンは人格がなくなり、という話だったが、たかしと江崎は人間性が残っているし、そこもよく分からない。

無理に壮大な話にしようとしなくてもいいんじゃないかと思う。

ポストヒューマンというとんでもない化け物が次々に現れ、より強い敵が9課の前に現れ、それを一人づつ倒していく、新たな最新技術を取り入れて、9課の戦闘技術も進化しながら闘っていく、次世代戦闘アクションものでも面白かったんじゃないかと思う。

今回のシリーズは、戦闘シーンにそこまで特化していなく、真新しく、目を見張るものが少なかったと思う。

銃弾が当たらない、飛行機をハッキングして突っ込ませてくる、などは良かったけど。

光学迷彩、電脳などが、もう既知のことになってしまっているので、作る側はハードルが高くて大変だろうが、もっと面白く出来たんじゃないかと思う。

その銃弾が当たらない、従来の9課の接近戦、電脳船すら通じない相手にどう立ち向かうか、ということをもっとフィーチャーしても良かったんじゃないかと思う。

米帝が絡んできて、人がたくさん死ぬ、というストーリーも進めなければいけないから、ポストヒューマンに関しての掘り下げは疎かになっているような気もする。

最終的に、少佐はまた高台から高層ビルの谷間へと消えていくラストだが、これも無理に付け加えている気がして、要らないと思った。

少佐が身を投げ、姿を消す必然性があまりないのにやるというのは、最終的にはこのシーンを入れる、と決めていたんじゃないか?

しっくりくるならいいがそうではなく、そんな水戸黄門の印籠的な、ファンサービスのためにありきの要素をただ繰り返すというのは、ダサいと感じてしまう。

やるなら、しっくりくる感じでやって欲しかった。

もうシーズン2のオープニングで格好良く表現できているから、無理に入れなくてもいい気がする。

マトリックスオマージュ的な要素

所々、ウォッシャウスキー兄弟のマトリックス的要素が入っているのが、マトリックスの方が良いので、なんだかなあと思った。

序盤で、ジョン・スミスが出てきた所で結構冷めた。

これは、そういうギャグなのかもしれないけど、そういうことなどしないのが攻殻機動隊であって欲しかった。

シーズン2も最後まで見ると、たかしがやろうとしていたことや、たくさんのカプセルが出てくることなど、明らかにマトリックスからもらっただろう考えがたくさんあり、なおのことガッカリした。

他の作品の考えを使うことが悪いと言っている訳ではなく、使うなら絶妙な使い方をしなければ、これではそのまま借りてきただけで、そのおかげて面白くなっている訳でもない。

マトリックスは、攻殻機動隊からヒントを得た、そして、今度はマトリックスから攻殻機動隊がヒントを得る、ということをもし面白いと思っているとしたら、もはや感覚がずれてしまっていると思う。

マトリックスは、攻殻機動隊をヒントに別物に昇華させたが、この攻殻機動隊2045はただマトリックスの概念を借りただけ、それは昇華ではなく劣化であると思う。

それに気づかないで、平気でマトリックスの世界を出して来ているとしたら、もうこの制作陣は衰えたので、退いた方がいいと思う。

ウォッシャウスキー兄弟が嫉妬し、彼らにパクらせる、ヒントにさせるくらいのことをしなければ、やる意味はあるのか、と思う。

少佐の活躍が少ない

このシリーズにおいて、少佐の活躍が非常に少ないと感じた。

もちろん、少佐がいなければ統制はとれないが、少佐でなければ突破できなかった、という場面が少ないように感じた。

このシリーズは江崎が主人公と言ってもいいような感じで、少佐は9課のリーダーであるということ以外に、少佐らしい独特の考えの行動があまりなく、存在感があまりないように感じた。

とても美しく、かわいらしいが、それを超える存在感は感じられず、肝心の格闘戦においても、今回のシリーズは少佐の見せ場がほぼなかった、と思う。

最後の仕上げに入っているシマムラと対峙する前、少佐もシマムラに掌握されていた。

9課が全員玉砕する映像をもしシマムラが見せていたとしたら、それも含め、9課はボロ負けである。

少佐と江崎だけシマムラの思い通りにならず、少佐だけが繰り返される現実の違和感に気付いて抜け出した。

確かにそれは少佐にしか出来ないすごいことかもしれないが、その前にもうすでにシマムラに確保されているので、それはどうなんだろう。

実際には闘っていなかった、9課が突入し、トンネルで米帝と戦った後、シマムラが目を覚ましてからもう現実世界ではなかった、ということか?

少佐すらすんなりと騙され、確保されてしまっていたとしたら、あまりにボロ負けすぎないか?

9課のみんなが現実世界を失う中、少佐だけ電脳戦で闘って抵抗する、という闘いすらないのは、少佐の見せ場がない、と言える。

シマムラはたまたま悪ではなかったけど、そうでないポストヒューマンだったらもう終わりである。

少佐自身、人間はポストヒューマンに敗北した、と最後に言っていたけど、なんかモヤモヤする。

平和主義的な結末

結局、最終的な結末は、あまりはっきりとは明示されていないものの、少佐はたかしの作った世界を受け入れ、プラグを引き抜かなかったんだろうと思う。

この行動は、柔軟にテロリストの意見でも、良いと思えば賛同するという柔軟さ、人というものを高い存在として認識していない達観した考え、などは少佐らしいが、現実主義者でもある少佐らしくない、とも言える。

各々が理想の世界に生きる、というのはきれいごとで、それは、もう世界が隕石で消滅するような、どうにもならない破滅が目の前に迫っているならまだ分かるが、そうではなく、まだ可能性が残っている世界において、少佐がそっちを選ぶとは考えづらい。

そういうたかしの考えを理解した上で、突っぱねて欲しかった。

それこそ、ゴーストのささやきに身を任せて欲しかった。

そこは、マトリックスと比べるなら、マトリックスの映画の結末の方が、はるかに現実的で希望がある。

それを行わずに、人々がそれぞれ理想の世界に生きるパラレルワールドを残し、少佐が最終的に姿を消す、というのは、少佐はその世界からただ逃げだだけであるように感じる。

人形使いと接したことで、より広大なネットの世界に魅力を感じ、強い好奇心を持って新たな世界に身を投じる映画版の終わり方とは、意味が全然違う。

この結末では、少佐も弱くなった、というか、軟弱になってしまった印象を受ける。

3Dアニメという大きな壁

これは3Dアニメであるが、良い面とそうでない面があると思った。

まるで実写を見ているかのような、かといって実写でも表現できないような臨場感を感じる時があり、思わず魅了されてしまう。

米帝の特殊部隊と9課のトンネルでの戦闘に入るシーンなど、実に格好良い。

背景など、一瞬実写と思ってしまうほどきれいに仕上がっている所もあり、美しいと思う。

しかし、マイナス面は、人が人形みたいに見えたり、顔の表情が非常に乏しく感じられ、無機質に感じられてしまう所だ。

まるでゲームの登場キャラクターを見ているような感じすらある。

ゲームでは十分だろうが、これでは従来の2Dで表現する方が、よっぽど人を生き生きとして描けるはずだと思う。

3Dアニメというのは、私は日本の制作者が取り入れることには懐疑的で、ジブリが作った3Dアニメもそうだが、顔の表情や体の動きは、ピクサーやディズニーの足下に及ばない。

逆に、2Dであれば、日本が頭一つ飛び出ているのに、なぜ負け戦に挑むのか、と思う。

挑んでもいい、チャレンジは重要だ、しかし、これでは負けすぎている。

たんに、莫大な資金力や技術力が違う、ということだけでなく、文化的に3Dは日本の制作者には向いていないと思う。

なぜなら、日本は2D文化で、肉体による感情表現が外国人に比べて極めて苦手な人種であり、それは実写の俳優の演技だけでなく、3Dアニメにも共通していると思う。

そもそも、日本人では思いつかない、普段やりすらしない表情豊かかつ、自然な表情を、ピクサーやディズニーの3Dアニメでは表現できている。

それは外国人が育んで自然と身に付けているボディランゲージ文化であり、日本人は持っていないものだ。

仮に全く同じ技術や資金力があった所で、日本人的表現力しか持っていない制作陣であれば、あそこまで表情豊かな3Dの人間の感情表現は出来ないと思う。

もちろんやれないことはないから、やってみるのは重要だが、高い壁だと思う。

単に知っている顔の表情だけでも、アメリカ人が知っている顔の表情は、日本人の2倍くらいあると思う。

情報として知っているだけでなく、実際に体に身に付いているものも含め。

それは、感情豊かで、使える感情の数が多いからで、当然表に出る仕草や表情も多くなり、深くなる。

そもそもそれを知らなければ、その表情を作ろうとすらしないだろう。

しかし、日本の2Dアニメは、そのハンデをはるかに飛び超え、多彩な2Dの技術と、世界で一番感情豊かである日本の声優の声が組み合わさり、世界で類を見ないクオリティを出すことが出来る。

だからこそ、3Dに挑むというのは、日本の2Dアニメの良さ、自分達の欠点すらカバーし3Dを凌駕してしまう日本アニメの強みを、自分たち自身が分かっていない証拠だと思ってしまう。

宮崎駿は、ジブリのスタッフと散々闘って、数々の表情豊かな登場人物たちを作ってきた。

「この顔でなんでだめなんですか?」というスタッフに、「一瞬振り返りこういう感じで笑う、この微妙な表情や仕草の機微が文化なんだ」とかなんとか、2Dに感情豊かなボディランゲージを落とし込む、という作業を散々やってきた。

そういう人達が、3Dアニメにおいてもやってくれる、教えてくれる人がいればいいが、そうでなければ、平坦でさらっとしたものになってしまうだろう。

もしかしたら、宮崎駿に徹底指導させたら、良い3Dアニメが出来るかもしれない。

もしくは、外国人を雇って、3Dアニメのキャラクターの演技指導をさせればいい。

2Dなら、そんなことはしなくていいのに。

というか、宮崎駿でも無理かもしれない。

ジブリのあの3Dアニメを許可していているわけだから、もう完全に衰えたと言わざるを得ない。

衰えたのか、そもそも2Dに関して魂を吹き込むことは出来ても3Dには出来ないのか、分からないけど。

余談だが、アーヤと魔女を作った息子の宮崎ゴロウは、2Dにおいてもそういう感情豊かな表情などへの造詣の深さは受け継いでいない、と感じる。

ゲド戦記は酷かった、話が分からないどうのではなく、ジブリの良さである人の表情や仕草の細かい所まで表現できていない。

米林監督のメアリと魔女の花は、ジブリっぽさはあるけど、所々なんだこの絵、とか入っていて、違和感がある。

今まで普通に見ていたけど、宮崎駿とか高畑勲がすごかったんだと思わされる。

所詮、彼らが突出していただけで、そういう人達がいなくなったら、もう2Dですら、心をつかむような作品は今後なくなっていくかもしれない。

彼らの作る作品は、絵がいい、というだけでなく、ストーリーも付いてきている。

実写でも、黒澤明だけがリアルを追求していただけ、彼がいなくなったら酷いもの、と言ってもいい。

たけしとか、良いのを作っていたけど、リアルを追求した超職人的監督ではない。

話しが大分それたけど、そもそも9課の人達は表情豊かな人達ではなく、ツーカーの中で感情をそこまで出さずに分かりあってコミュニケーションをやっていく格好良い人達だ。

それが2Dでは違和感なく表現出来ていても、3Dになるとただの無表情に見えることがある。

ただ口がちょっと動いたり、眉間にしわが寄ったり、瞬きするだけでは全然足りない。

実写の演技でも、深みのあるポーカーフェイスが一番難しい演技だと思う。

ポーカーフェイスって、実はけっこう色んな細かい顔の動きが現れているんじゃないか?

感情豊かな外国人は、感情がある上で表に出すのを控え、それが無言の深みにつながると思うが、日本人の俳優はただ黙っているだけでそんなに深みを出すのが出来ない。(三船とか、勝新太郎とか、出来る人は昔いても今はスカスカである。)

日本人が作る3Dアニメにおいても同じ。

3Dの向かっている先はそういう難しい表現方法である実写の技術であり、実写に近づければ近づけるほど、日本人としての表現力のなさが露呈してしまう。

いくら声優で感情をカバーできるといっても、この3Dの絵の表現力であれば、相乗効果になっておらず、3Dの登場人物の大根さを、声優の巧みさでギリギリカバーできていない、と思う。

映像が実写みたいで美しい、臨場感があり格好良い、というメリットよりも、そういう感情面の表現が乏しいというデメリットの方が、アニメにおいては致命的だと思う。

だから、3Dはいったん置いておいて、2Dを追求する、という従来の日本らしい、というか世界で一番突出した表現技術にまた戻って欲しい。

このシリーズは、そういった表現の乏しさや、決して新鮮で一貫した訳でない新たな概念やストーリー、少佐らしさの欠如、という意味で、面白くなくはないが、今までの攻殻機動隊シリーズの中でも、かなり下の方、いや、一番下であると言わざるを得ない。

3Dにするなら、ピクサーやディズニー、世界が嫉妬するくらいのものを作って欲しかった。

これでは全然嫉妬はしない。

その他気になった9課のあれこれ

トグサの詰めの甘さ

トグサは、核が搭載された潜水艦の中で、到底肉弾戦で太刀打ちできないだろう危険なポストヒューマンであるミズカネの義体を、せっかく動きを封じる所まで持って行ったのに、なぜ戦っていたオノで完全に首を切断しなかったんだろう?

核が発射されるかもしれないのに、そんな詰めの甘いことをするか?

トグサらしいと言えばそうだが、アホだと思う。

せめてこの時、トグサは満身創痍でボロボロならまだ分かるけど、そうでもなかった。

少佐の無謀な突入

バイクで走るミズカネを9課で追っていた時、バトーが「どうやって捕まえる?」と少佐に聞くと、少佐は「一瞬で気絶させる」と言っていた。

銃弾すら当たらない相手をどうやって?

「どうやって?」ってせめてバトーは聞いて欲しかった。

催涙ガスを使う米帝の大分下をいってないか?

結果的には米帝が来てくれて良かった。

ガスでいけるのか?という話ではあるけども。

石川の不注意、あっさりやられるミズカネ

ミズカネがガスで眠っている時、イシカワは、ミズカネからダウンロードしたデータのケースごとなぜすぐにタチコマに乗り込まなかったんだろう。

ミズカネがいつ起きるかもしれないのに、ぼーっと突っ立っている意味が分からない。

少佐とバトーが前で特殊部隊の動きを制してくれているのに、そんな不注意なことするか?

イシカワにしてはアホすぎる。

そして、銃弾すら当たらないミズカネが催涙弾であっさりと眠ってしまい、起きてからはあっさりと米帝の銃撃で死んでしまう。

なんじゃそりゃ?

ミズカネ攻略の難易度は拍子抜けくらい低かった。

それを少佐は知っていたのか?

サイトーの声ってこんなんだっけ?

サイトーの声ってこんなに棒読みだったかな、と思った。

調べると、サイトーの声優の方は変わってないみたいだから、なぜなんだろう?

これも3Dによる弊害か?

それともブランクが空いて、少し変わってしまったのか?

勝手な推測だけど、3Dの方がアフレコしづらい気はする。

どんなアフレコの仕方をしているかは知らないけど、生き生きとした2Dの絵を見ながらアフレコした方が、絵からも感情をもらってより気持ちが入る、というのは絶対にあるとは思う。

少佐が少女にしか見えない

少佐も、江崎も、非常に美しく仕上がっているが、どっちもかわいらしい少女に見える。

江崎はまだ良いけど、少佐は攻殻機動隊シリーズの中で一番幼く見えるんじゃないか?

かわいさがあるのは悪いとは言わないけど、このルックスに力を注ぎこんで仕上げるよりも、中身の人格が見えるセリフ回しとか、行動とかにもっと力を入れて欲しかった。

日本のアニメにおける女性の少女化というのは、日に日にどんどん進んでいる様な気はするけど、それが流行りだとしても乗る必要はないし、その良さが私にはいまいち分からない。

さらなる進化を望む

色々と書いたけれども、攻殻機動隊シリーズは、もっともっともっと進化していって欲しい。

現代の科学技術が進み、攻殻機動隊の世界がそこまで非現実ではなくなってきている今、色んな意味でどんどんハードルは上がって行ってるだろうけど、それを打ち破って欲しい。

電脳、光学迷彩が登場した時のような、衝撃的な技術や概念、重厚な人間性の上に作られたストーリー展開など、もっともっと出来るはずだと思う。

それは、士郎正宗とも協力してでも、新たな世界を創造してほしい。

私は、2Dがいい。

この制作陣は、シーズン2のエンドロールのような、格好良い2Dを全編にわたって作れるはずだ、と思うと、少し悔しさもある。

作る側は大変だろうが、ゴーストのささやきに耳を背けず、頑張ってほしい。

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