英題:JOKER
監督-トッド・フィリップス 2019年 122分
脚本-トッド・フィリップス、スコット・シルヴァー
出演-ホアキン・フェニックス、ロバート・デ・ニーロ、ザジー・ビーツ、ブレット・カレン、フランセス・コンロイ、他
映画「ジョーカー」のあらすじ
持病の障害を抱えながら大道芸人の仕事をして日銭を稼いでいるアーサーは、病気の母親を介護しながら、狭いアパートで母親と一緒に暮らしている。
気の弱いアーサーは仕事でうまくいかなかったり、病気のせいで人からおかしく見られることもあったが、大好きなコメディアンになることを夢見ながら、母親とささやかな暮らしを送っていた。
ところが、市政の財政難からアーサーの病気に対する社会保障が打ち切られてしまい、大道芸人の仕事では同僚のせいで仕事をクビになってしまう。
そんな時、仕事帰りの電車の中で若いサラリーマン風の男たちに訳もなく絡まれ、持っていた銃で思わず撃ち殺してしまう。
それがきっかけとなり、アーサーが抱いていた心の闇が次第に大きくなっていくのだった・・・。
“オススメ”の理由と考察、その感想
ホアキンフェニックスの不気味さが充満している
バットマンシリーズの悪役ジョーカーの誕生を描いたアクションスリラー作品。
ホアキン・フェニックスの不安定で、かつ力強い演技が、なんとも惹きつけられる。
真面目に働こうとしている部分、不安定に揺れている部分、完全にジョーカーになった部分など、都度都度変化していっている様が演じられていて良い。
コミックを原作にしている作品で、こんなにもドラマがそこそこしっかり作られていて、アクションがさほど多くなくても見ていられる作品は他にないかもしれない。
ジョーカーの内に秘めた狂気性が画面に充満しているので、バットマンシリーズのかつてのジョーカーのような派手なアクションがなくても、充分、いや、それ以上の見応えを感じた。
ホアキン・フェニックスは、演技でこうなっている部分ももちろんあるだろうが、もうすでに本人自体にかなりジョーカー要素があるから、よりマッチしているんだと思う。
コメディアン志望で、コメディを見に行って、他の人よりも大げさに笑ったり、為になると思ってメモしているポイントがずれていたり、その一連の行動の不気味さにはゾッとさせられる。
平気で隣人に「コメディアンなんだ」と得意げに言ってしまったり、そういった、ずれた怖さというのが、ホアキンの不安定かつ繊細な演技で見事にジョーカーになるまでに表現されている。
パッと言葉に出来ないけど、この人なんかおかしい、ということを演じさせたら、ホアキン・フェニックスはまさに敵役だと思う。
キング・オブ・コメディで怖いコメディアン志望を演じたロバート・デ・ニーロも良い脇役で出演しているのも遊び心があるし、エンターテインメントして面白い作品になっている。
全体として物足りないものになっている
この作品の狙いは何通りかあると思うが、選んだ狙いがこの描き方では振り切れていないので、もったいないと思った。
ジョーカーは元はただの一市民でうっぷんがたまった市民の代弁者でありヒーローなのか、うっぷんがたまった市民を利用して悪事を起こそうとしている根っからの悪なのか、元々おかしくて市民の代弁者に見えるだけで本当は代弁者でも何でもない変な存在なのか、色々考えられるが、この作品がやりたいのは、最後の設定であると思う。
しかし、アーサー以外の市民の状況があまりにも描かれなさ過ぎて、アーサーと他の市民の待遇の違いが分からず、アーサーがおかしいだけという印象が全体を通して強くなりすぎてしまっているので、全体のストーリーに奥行きがなく、浅いものになってしまっている。
元々おかしな人間がさらに狂ったところで、予想できる範囲で驚きもなく、ホアキン・フェニックスの振る舞いは素晴らしくても、全体としてあまり噛み応えのないストーリーになってしまっている。
アーサーがおかしいのは変える必要はないが、俯瞰の視点が決定的に足りない。
アーサーは、確かに酷い境遇だが、特に社会に強烈にいじめ抜かれた、という訳ではなく、ジョーカーになる要素は社会にはあまりなく、元々アーサーがおかしかったからだ、ということになる。
しかし、他の住民は、アーサーがされていないようなもっと酷いことを社会から強いられていて、これは暴動を起こしてもしょうがない、という気持ちにさせられていた、という対比があれば、その両者の方向が最終的に奇跡的に一致してしまうという怖さが、浮き彫りになって良かったんじゃないかと思う。
むしろ、アーサーの境遇はゴッサムシティーの下層市民の中では恵まれている方で、もっと酷い中で暮らしてる人がたくさんいる、お前は、アーサーはなんで暴動に参加してるんだ?なんか違う理由で参加している、怖い、と思われるくらい、はっきりと対比が分かった方が面白かった。
市民が暴動に至る理由も、大企業が金を搾取している、貧困が多い、くらいの情報をテレビからちょろっと流れてきたり、アーサーが電車の中で若者に絡まれたりするくらいの描き方では全然足りない。
社会保障が打ち切られるというというのは、確かにあってはならない理不尽さだが、他にももっと理不尽な町という描写が欲しかった。
それはアーサーにも、アーサー以外の住民に対しても。
アーサーに関していえば、天涯孤独でも、病気で人からおかしく思われても、悪いことに走らずに真面目に生きている人はいくらでもいる。
別に社会はアーサーを見捨てている訳ではない、暖かく守ろうとしている訳でもないが。
母親も病気だったわけだし、ウェイン家は確かに母は元メイドなんだから、莫大な財産があって器が大きい主であれば、最低限は面倒を見てあげても良いだろうとは思うが、アーサー母子をあえて酷い目に合わせたわけではない。
隣人の女性が好きになってくれないのも、もちろんその女性のせいでも何でもない。
確かに、自分がその立場になったら全然平気だとは言えないくらいの境遇であるが、ジョーカーのような超人的犯罪者になってしまうのは別次元の話だ。
そういったアーサーがジョーカーになる決定的な要素がなく、やはりアーサーが元々おかしかったから、アーサーは勝手にジョーカーになった訳で、それでいくのであれば、やはり一般市民が感じている不満やうっ憤も描かなくてはいけない。
この感じのアーサー中心のドキュメント風で、他の市民をあまり描かずに作りたいのであれば、アーサーがジョーカーになる決定的なきっかけをアーサーに与えてあげなければいけない。
見ていて、アーサーに対する心の持っていき所が何もないからだ。
この街よりも、かつてのニューヨークの方がよっぽど酷かったんじゃないかと思うから、なんでこんなに普通よりの街の描き方にしたんだろうと思う。
荒れる前のゴッサムシティーと言ったって、もう少し荒れてていいんじゃないか。
犯罪が多発してるのは、ジョーカーが台頭してからの話だから、ゴッサムシティーがアーサーにジョーカーになるきっかけを与えることは、元の設定を覆すことだから出来なかったのか?
制作側は、あまりゴッサムシティーの荒廃さを際立たせたら、ジョーカーがヒーローに見えてしまい、真に受ける人が出たり、犯罪者をヒーローにするのかなど批判が来ると思って抑えたのか、あまりウェイン家の設定などを変えられないからやむを得なかったのか、分からない。
もし、市政を取り仕切るウェイン家が、酷すぎる行政の運営を行っていたら、それによって生まれた犯罪者をバットマンが成敗する、というのはマッチポンプも甚だしく、バットマンシリーズの根本を覆してしまうからダメだったのか?
バットマンは何も正義ではなくなってしまうからか?
元々シリーズのスピンオフであるから、あまり自由には出来なかったんだろうが、ロバート・デ・ニーロ主演のキング・オブ・コメディを見終わった時の、心がざわつく感じは特にしなかった。
アーサーは元々病気であるのに対して、キング・オブ・コメディの主人公は、不気味なおかしさはあっても、それが何から来るのか不明であり、簡単に説明できるようなものではないという、深みがあった。
アーサーの場合は、病気からくる逆恨みといっても良いと思うから、そこに大した深みはない。
アーサーにヒーロー要素があれば深くなっただろうが、ヒーローにはしたくなかったし、設定も変えられないから、アーサーがおかしいから勝手の社会のせいにしてジョーカーになったということにしたかった、かといって、リアルにもしたかったからアーサーを中心に撮りすぎて、全体のストーリーが薄くなった、という感じか。
もしホアキン・フェニックスでなければ、ずっこけていたような作品になっていたかもしれない。
全体のリアルなドキュメント風のタッチは重厚で決して悪くないが、色々守りに入りすぎて、今一つ突き抜けられなかったのが残念に感じる。
ホアキン・フェニックスを味わうにはとても良い作品だと思うが。
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