監督-ジョエル・セリア 1971年 103分
脚本-ジョエル・セリア
出演-ジャンヌ・グービル、カトリーヌ・ワグナー、他
映画「小さな悪の華」の簡単なあらすじ
厳粛な寄宿学校に通う15歳の少女、アンヌとロールは、悪事を行うことに憧れを持っていた。
二人は長い休暇になると、いたずらに村人の男を誘惑したり、放火したり、盗みを働いたり、悪事を行うことを楽しんでいたが、次第にその行動はエスカレートしていき・・・。
原題の意味
フランス語の聖書の一説、「Mais délivre-nous du mal」=「我らを悪より救いたまえ」を変えた物だそうです。
「Mais ne nous délivrez pas du mal」=「我らを悪より救いたまうな」という意味になるようです。
結末と良い、まさに原題ぴったしの感じですね。
“見て損はない”理由と考察、その感想
難しい年頃の憧れ
監督は当時話題になった自分の親を殺した少女二人の事件をモチーフにこの映画を作ったらしい。
体もそこそこ成熟してきて行動範囲は広がったが、まだ精神が未熟なままの10代の少年たちは確かに不安定で危険な要素はかなりある。
この当時だけでなく、相変わらず現代でも少年犯罪はたくさん存在している。
ほとんどの国で、少年に比べて、大人の方が多く犯罪を犯しているので、必ずしも少年達だけおかしいというわけではない。
きっと、若い彼らが罪を犯してしまうと、大人が起こすよりも目立ってしまうということもあるだろう。
それは、大人が利己的に、目先の利益のための犯罪を犯すとしたら、もっと違う要素、若さ独特の精神の不安定さで不可解な理由で罪を犯すことがあるから、より目立ってしまう。
この作品も、なぜこの少女たちはこんなことをするのか、というのは普通の感覚では理解できない。
大人からしてみると、悪に憧れている、人と違ったこと、それが悪い事だったら悪いことをしよう、という考えがかなり未熟で幼稚なものに見えてしまう。
しかし、彼らにしてみたら、それはつまらない日常から自分たちを連れだしてくれる輝かしい行為に見えてしまっているのかもしれない。
周りの誰もが同じ教えに従っている時に、自分達だけそれを破るということに特別感を感じてしまっている。
これは、その本人の生まれ持った本質というのもあるけれど、そういった閉鎖的な環境をそういう性質を持った子供に与えてしまった大人たちの責任もあるかもしれない。
この作品に出てくる親たちも、よく言えば放任主義だが、本質的な部分で子供に対して関心がない。
何に憧れて、何が好きで、どんな性格なのか、なんとなく把握しているつもりでいるだけで、実は何もわかっていないし、積極的に分かろうともしていない。
親の責任と言ってしまえば簡単だが、親だって自分が無関心になっていることすら気づいていない訳だから、社会全体で学んでいく必要があるかもしれない。
この少女たちの親は裕福で、うわべだけ良い子を演じていれば何もお咎めはない。
むしろ、ある程度裕福じゃない家庭の方が、子供とちゃんと会話をするような家庭なのかとも思う。
だからといって貧乏過ぎても心がすさむだろうから、どの程度の裕福さが良いかなんて決められない。
裕福だろうがそうじゃなかろうが、しっかりした親はいる。
この作品に出てくる少女たちは、悪に憧れていた。
今であればアイドルや映画の俳優、テレビやネットでいくらでも自分の嗜好に合う憧れをを見つけられるかもしれないが、情報がない昔、ましてや田舎の厳しい寄宿学校なんて、かなり閉鎖的になってしまって当然ではある。
もし自分の子供がアイドルなんかに憧れていたら、むしろ親はある程度安心して良かったりするかもしれない。
しかし狂信的にアイドルに憧れてしまって事件を起こす人もいるから、何とも言えないか・・・。
憧れるのもほどほどでなければ。
この作品では大人の男たちが少女に翻弄され、反宗教的な行いも多々行っていて、1970年代のこの作品が当時上映禁止になったというのもうなずける。
不安定なこの世代の人達の考えていることを知る意味でも、こういう作品は貴重だから、禁じない寛容さが社会に欲しい。
不安定といっても、10代の中でもこんなことする連中はかなり稀だろうから、なんでもかんでも当てはめてはいけないが。
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