日本人と外国人の演技の違いPart2

こぼれ話

立ちはだかる「感情の壁」

日本人はなぜ演技が下手なのか?

それは日本人が日本語という特殊な言語を使っていることが大きいと思います。

言語が違うことに伴う、癖づいた日常的な感情の出し方が積み重なって、決定的な違いを生んでいます。

よく日本人俳優がハリウッドや外国映画に挑戦するときなど、言葉の壁があるなどと言われますが、実はそれは間違いで、言葉ではなく、感情の壁とでも呼べるものでしょう。

なぜこうも日本人と外国人の演技には違いがあるのか、感情にこうも違いがあるのか、言語の違いをヒントにひも解いていきたいと思います。

日本語は複雑で細かすぎる、外国語はざっくりしている

日本人は普通に誰しも日本語を使いこなしていて何も疑問に思うことはないでしょうが、日本語は世界で一番細かい所まで表現できる言語です。

英語を学んでいくと分かると思いますが、英語ってこんなにざっくりしてるのかと驚かされます。

日本人は英語が苦手で、しゃべれないことに少なからず劣等感を感じてしまう人も多いと思いますが、それも当然の話しで、英語が難しいんじゃなく、日本語があまりにも難しすぎるからです。

日本語は、その状況に応じて多種多様に当てはまる言葉が存在し、口調自体の言い回しもあまりに豊富で、英語でそれを当てはめようとしても、ピタリとはまっていく言葉はまずありません。

この日本語という言語の特殊性が大いに感情表現に関わってきます。

例えば日本語だと「あなた、あなた様、君、お前、てめえ、お客様」など実にたくさんありますが、英語だと全部「you」一つでまかなえます。

「Sir」や「Ma’am」など、添えることで尊敬を表す言葉はあるものの、相手と話す時は、自分より年下でも、対等の立場でも、目上の人に対しても全て「you」を使います。

日本人からしたらなんて不自由な言語なんだろうと思ってしまいます

英語をはじめとした外国語には、口調自体そのものが尊敬・丁寧・謙遜をあらわす様に変化する「敬語」というものがほとんど存在しません。

ドイツ語やスペイン語にも目上の人としゃべる時につけ加えて尊敬や丁寧を表す言葉はあるにはありますが、日本語の「なさる・される、させていただく、いたします」「いらっしゃる、うかがう、参ります」などの様に複雑かつ口調自体変化する日本の「敬語」には程遠いものになっています。

使う言葉と組み合わせ次第で外国語が3段階変化できるとしたら、日本語は10段階変化できる様なもので、もしかしたらそれ以上かもしれません。

彼ら外国人はどうやって会話しているのかと思ってしまいます。

複雑なのは敬語だけでなく、普通の会話で使うしゃべり方があまりに膨大です。

「そう」という言葉一つとっても、「そうだ」「そうだね」「そうよね」「そうか」「そうだよ」「そうだった」「そうそう」などと多種多様に変化しますが、「Yes」は「Yeah」くらいのものです。

女性が使う特有の女性口調というものも英語にはなく、「あたし」「~だわ」「~よ」というのもそれを付けたら「女性のようなしゃべり方だ」と思ってしまうのも日本独自のものです。

言ってみれば、日本語はかゆい所に手が届き過ぎるほど届く言語と言っても過言ではなく、この言語を使い続けることで、日々駆使する感情も外国人と大きく変わってきます。

日本人は言葉でしゃべる、外国人は感情でしゃべる

では、敬語も変化する口調もなく、外国人がどう会話をしているのかというと、重要になってくるのはやはり感情です。

「you」という一つの言葉で年下でも目上でも全てに変化をつけるとしたら、どういう気持ち・態度でしゃべるかという感情で変化をつけるしかありません。

失礼じゃない感情で「you」と使えば、目上の人に対しても決して失礼にはなりませんし、逆に冷たく言い放つ感じで「you」と言えば、相手にはマイナスの印象を与えるでしょう。

実にシンプルなシステムですね。

それこそ、言葉だけでなくジェスチャーや顔の表情など、あらゆる非言語コミュニケーションを多様に駆使して感情を伝えて来ます。

日本語の様に状況にあった言葉自体をその都度生み出すのではなく、数少なく不自由な言葉を多様な感情で補っています。

小さいころからそうやって鍛えられた外国人が感情が豊かな人が多いのもうなずけますね。

言葉を変えられないのであれば、感情を変えるしかない。

むしろ感情表現に幅がなければ、少ない言葉では会話が成立しなくなるから、自然に感情豊かになっていくんでしょう。

一方、日本語は感情を変えなくても、その状況にぴたりと合った言葉がたくさんあり、それを選んでいけばいいので、感情を使うよりも言葉を選ぶという習慣になります。

目上の人としゃべる時でも、失礼のない気持ちでというより、失礼のない言葉を選んで、という思考になります。

失礼のない気持ちをダイレクトに出すのではなく、その気持ちが言葉を探すという作業に移行してしまいます。

だから、状況にあった言葉を言うのに必死で、気持ちが疎かになりがちです。

敬語に関して言えば、複雑な言葉をきちんとつかえた上で気持ちも入れられれば、こんなに丁寧な言語は他にないとは思いますが。

かゆいところまで手が届いてしまう言語が故に、言葉が先行し、感情で相手としゃべるという文化・習慣が育まれなかったのです。

言葉をたくさん覚えれば覚えるほど、むしろ日本語の教育水準が上がれば上がるほど感情が無意識的に出ずらくなると考えていいんではないでしょうか。

もちろん一概には言えませんが、近年で言えば戦後から高度経済成長など、誰しもがある程度の教育を受けられなかった時代を生きた人達の方が、現代の教育水準が高い人に比べて感情表現は豊かです。

落語だってちゃきちゃきの気風のいい感情豊かなやりとりなど、江戸時代の話しが今だに主流になっています。

人は、自分が知っている言葉、使う言葉は少ないほど感情が出やすいと言えます。

彼ら外国人はその少ない言葉を感情表現に幅を持たせることで、意思の疎通を行っています。

世界に類を見ない細かすぎる言語文化で育まれた日本人の役者が、感情表現が苦手だとしても何ら不思議ではありません

感情を出さなくても伝わってしまう伝え方が身に染みてしまっているので、相手に言いたいことが伝わらない時、言葉を探すことは出来ても、どの感情を使おうかという思考にはなりずらいです。

日本人と外国人の間にあるのは、言葉の壁ではなく、会話における感情表現の壁でしょう。

表面上の言葉は氷山の一角

近年ではテレビでもよく見かける心が女性の男性、いわゆる「オネエ」と呼ばれる人たちがいますが、外国人のオネエと呼ばれる人達を見たことがあるでしょうか?

海外が本場であるオネエ、ドラグクイーンとも言われますが、日本人のオネエは口調が「女性言葉」を使う人が多いのに対し、「女性言葉」が存在しない外国人のオネエはどうかというと、もちろん男と同じ言葉を使います。

しかし、彼らを見てみても日本人のオネエを見る時と同じく、この人はオネエなんだと感じます。

使う言葉が単に「女性言葉」であるか否かは関係なく、心が女性であるがゆえに、仕草や立ち振る舞い、優しい話し方など全部をひっくるめてそう感じさせているのでしょう。

もし、そういう人たちを演じようとした場合、表面上だけ女装したり女性言葉を使うだけではあまりにも足りないし、それはあざとく見えてしまいます。

彼らを演じるのであれば、言葉自体を変えるのではなく、心・感情が女性にならなければいけません。

むしろ現実には、女装しない人や、男と同じ言葉使いをする人の方が圧倒的に多いです。

今は日本でもお茶の間にたくさんそういう人が出てきてますから、リアルな人達を見る機会も多い分、見る目は肥えてきていると思いますが。

オネエに限らず、演技をする場合はあくまで使う言葉ではなく、大元の気持ち・感情自体を丸ごと変える必要があるのに、日本人の演技は表面上の言葉にとらわれて止まっていて、奥まで出来ていないことがあまりにも多いと感じます。

それはすなわち「演技をしようとしている演技」にすぎず、当然あざとく薄いものになってしまいます。

典型的な例だったら、老人だったら「わし、~じゃ」(実際あまり見かけませんが)、女性だったら「あたし、~よ」、男だったら「俺、~じゃないか」、子供だったら「僕、~だもん」というように、日本語はあまりにも年齢や状況によって使い分ける言葉が多すぎます。

特定の人たちが使うステレオタイプな言葉づかいが多く、単にそれを真似しただけでは、アクターズスタジオで言う所のいわゆるスタンプ、うわべの演技であり、リアルとは程遠いものになってしまいます。

英語だったら自分は全部「I(アイ)」で表現できますから、中身=感情を変えざるを得ないでしょう。

むしろそれ以外に変えようがない。

日本人の場合、その日本語の複雑さが故に、その言葉を使っているというだけで演技が出来ていると勘違いしてしまうことも多いと思います。

演技において鎖国状態である日本

日本人はその独特な言語によって意思疎通に感情表現をする必要性が少ないと言いましたが、それはもちろんテレビドラマや映画においても同じことです。

演じている側も日本人なら、見ている側も日本人な訳で、そこに感情が存在しなくても十分伝わってしまいます。

「どこか物足りなあ」、となんとなくは感じるかもしれませんが、役者の演技は相変わらずだし、自分の周りに誰もそのことを言う人もいなく、「まあこんなもんなんだろう」とおさめて終わってしまいます。

むしろ、それすら感じずに見ている人が大多数なのではないでしょうか。

日本のテレビドラマ・映画界には、見ている者の心をえぐってくるような感情はなくても十分成立してしまいます。

仮に少しくらいあざとかったり下手であっても、役者の大多数がそうだから目立ちませんし、監督や視聴者や誰に指摘されることもなく、そのまま素通りしてしまいます。

監督や撮影スタッフ、役者、お金を出す制作側はもちろん、それを見ている側も、全員特殊な言語「日本語」を日常的に使う日本人ですから、誰も気づかなくても不思議ではありません。

その輪の中に、その表現が感情が豊かかそうでないか判断する人間が誰一人存在していないということです。

昔であれば何かを強く追及する監督や役者が輪を乱してでもそこを食い止め、その強い力で周りを引っ張っていくような人達がいたのでしょうが、今はそういう人もいないのでしょう。

国民の意識が同じ方向に向かっていたという時代のせいもあるでしょうが、「私が何が良いのか教えてやる」というくらい自信にあふれた人達が作ったドラマや映画がかつてはあり、それにまた見ている視聴者も引っ張られてきました。

今はそうでないものでも分からずに視聴者は見続け、制作側は宣伝費を儲け、役者はお金をもらうという循環が見事に成り立ってしまっています。

しかも、この日本人が使う日本語という難しい言語を使いこなすのは外国人には至難の業で、海外から見てもよく分からないからあからさまに口出しもされずに、この日本という独特の役者マーケットは世界から独立した、いわば鎖国のような状態にあると言えるのではないでしょうか。

海外から見て「よく分からない」というのは、悪く言えば「相手にされていない」ということでもあります。

よく分からなくても、良いものは言語を超えて相手に伝わり、よく分からないが何かを強烈に感じさせるということになりますが、残念ながら、今の日本の役者のマーケットは海外にそこまでのインパクトを与えるに至っていないのが現状でしょう。

日本が世界に誇れる分野-漫画・アニメ

漫画であれば、いくら現実では感情をこめづらい日本語を登場人物がしゃべっていても、躍動感のある絵を使った顔の表情や仕草、行動でいくらでもカバー出来ますから、現実の演技に比べて違和感は圧倒的に少ないです。

世界で一番緻密に繊細に表現できる日本語だからこそ、それに合った感情を表現できれば、右に出るものはないはずです。

日本の漫画に、日本の役者が出来ないけどやりたいことの理想が体現されていると言っても過言ではないと思います。

だから、日本の漫画を日本の役者が原作に忠実に実写化するというのはそもそもが違う話で、簡単になんでもかんでも実写化をするというのは、まさにどれだけ難しいことをやろうとしているのかが理解できていないからということの証でもあります。

不可能に近いことにチャレンジするというほど難しさを分かった上で、覚悟してチャレンジしているという訳でも決してありません。

全く別物にするということで作るならまだ分かるのですが。

アメリカの漫画も昔に比べて繊細になってきているのでしょうが、ヒーローもののアメリカンコミックなどは、日本の漫画に慣れていると心理描写・人物の表情・場面転換などどれをとっても雑であり、繊細な印象は受けません。

そういうものを他国の人たちが実写化する分にはさほど問題はなさそうな気はしますが。

アニメの声優に関して言うと、これは間違いなく他国の追随を許さないでしょう。

海外の名優がよくアニメの声優をやっていたりしますが、もちろん味はあっても、日本の声優の緻密さや感情の乗り方に比べるとかなり物足りないのは明らかです。

声だけではボディランゲージなどの非言語コミュニケーションは一切使えない訳で、外国人の得意な表現が封じられがちになります。

また、英語はたくさんアルファベットが集まって初めて意味を成す言葉ばかりですが、日本のひらがな・カタカナは、その一音、もしくは二音でも意味を成す言葉が膨大にあります。

英語の様にさらっと言うのではなく、読む文章を全てひらがなにして、ぺたぺたとゆっくりと読むことも出来ます。

英語よりもより細かく分けて感情を声で表現できるから、プロの日本の声優のセリフの1フレーズにおける感情の豊富さは、海外のアニメの声優と格段の差が出て来ます。

さらに、声だけの俳優「声優」という職業を確立したのも日本が最初で長い歴史を持ち、いわゆる俳優とは違う分野としての「声優」が独自性を持ちながら育まれてきました。

間違いなく世界に誇れる俳優文化です。

独特の声色やアニメ声と呼ばれるようなものは、実写では違和感はあるかもしれませんが、アニメで絶大な力を発揮します。

日本語の特性を生かしたしゃべり方というのは、実写で演技する俳優よりも、アニメの声優の方が一足早く見つけたのかもしれないとさえ思ってしまいます。

日本人俳優の今後

ハリウッド作品や海外の大作に出演している日本人も少しずつではあるが、増えていることは確かです。

それでも、ステレオタイプなアジア人よりだったり、感情面で海外の俳優に比べてかなり見劣りして映ってしまっているのが現状でしょう。

表立った表現が苦手なだけで、その繊細で細やかな日本人の感情は人の心を強く動かす力があると思います。

日本にも複雑な日本語にとらわれずに感情を出せる俳優は少なくてもいるにはいますが、その良さが認められて育っていく畑は日本にはまだないと思います。

そういう人達の良さをはっきりと大多数の日本人が認識できていないので、芽が出ずに埋もれてしまっている状況です。

英語教育がどんどん早められている今、根本的な思考が変わり、日本語の複雑さにとらわれずに日本語を使いこなす俳優がこれからどんどん出て来る可能性はあります。

それでもまだ、世界も日本人の良さが分かっていなければ、日本人自体も自分たちの良さが分かっていない状態なんだろうと思います。

人材を増やして畑を耕し、これぞ日本人だという良さを世界に突きつけて欲しいと思います。

それこそ、かつての日本映画が世界を驚かせたときの様に。

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