映画「ダンス・ウィズ・ウルブズ(1990)」が“物足りない”理由と考察、その感想

④物足りない☆2

ダンス・ウィズ・ウルブズ Dances with Wolves

監督-ケビン・コスナー 1990年 181分

脚本-マイケル・ブレイク

出演-ケビン・コスナー、メアリー・マクドネル、グラハム・グリーン、他

「ダンス・ウィズ・ウルブズ」の一文あらすじ

ケビン・コスナー演じる主人公が、インディアンと出会い、一緒に生活して、彼らの生き方に共鳴していく。

“物足りない☆2”理由と考察、その感想

インディアンに対するイメージが変わる

自分がインディアンに持っていたイメージが変わった。

インディアンは、姓名を持っていないけど、変わりに、その人の特徴を名前にしている。

拳を握って起こる女、とか、タイトルにあるように、狼と踊るやつ、など。

普通に姓名をつけるよりも面白いなと感じた。

ただ、自分がたまたま見られた失敗を名前に付けられたら最悪だなとは思うが。

最初は野蛮なだけのイメージだったインディアンも、一緒に生活して知っていくうち、自分たちとなんら変わらないとわかる。

それよりか、自分たちよりも純粋な生き方をしているんじゃないかと気づかされる。

インディアンは、白人たちにとって野蛮であり、人間としては見ていない。

後半インディアンが白人に捕まったケビンを助けに来るとき、相変わらず白人たちはインディアンをバカにしているが、ケビンと我々観客たちは違う。

インディアンがどんな存在か少しは知っている。

自分も最初はインディアンをこんなイメージで見ていたんだと気付かされた。

そういうのも含め、助けに来るシーンがとても良い。

ケビン・コスナーの演技が物足りない

寡黙なケビンコスナーの感じが、物足りない。

そんなに多くは語らず、決してはしゃいだりしない感じは悪くないが、あまり深みを感じられない。

寡黙でも背中でしゃべるというタイプの人はいるが、恐らくケビンはそのタイプじゃないんじゃないかと思う。

むしろ、もう少し笑ったり、はしゃいだりした方が、ケビンにはあっているんじゃないか。

もちろん笑ったりしゃべったりはしているが、沈黙になると違和感がある。

ケビンが人の輪の中で生み出す沈黙は、良い沈黙じゃなく、変な感じの沈黙になっているというか。

そして、恋をする相手がインディアンではなく、インディアンに育てられたアメリカ人というのはどうなのだろう?

インディアンで、英語をかたことでもしゃべれるという設定は難しいのか?

ケビンを追ってアメリカ軍が来るので、ケビンがインディアンの村にいるとインディアンに迷惑がかかってしまう。

なので、それを気がかりにしたケビンが村を去ろうとするとき、インディアンは引き留める。

君はもうインディアンだから、今までの君はもういない、だからここにいていいんだよと、とても粋なことを言ってくれている。

別に迷惑がかかってもいい、君のせいじゃない、だからここにいなさいと。

それなのに、ケビンは帰る。

しかも純粋なインディアンではなく、村で育った白人女性を連れて。

最後の別れは感動のシーンだが、これはいいのか?と思ってしまった。

ここにいていいと言われているのに、それを振り切ってまで帰ってしまう理由がはっきりしない。

深い意味があるとも感じなかった。

ただ帰ったというか・・・。

これではウルルン滞在記の様になってしまわないか?

もしくはお嫁さんを探しに来たというか。

結局最初から一緒に暮らす気なんてなく、ちょっと興味本位の観光がてら覗きに来ただけなんじゃないかと。

なぜか最後の方にはインディアンの言葉がペラペラになっている。

せっかくそこまで覚えたのに帰るのか。

というか、急にそんなにペラペラになれないし、かたことでもいいのにペラペラである必要が良くわからない。

ただ、器用だなと思っただけで、特に深い意味は感じなかった。

そこまで惚れ込んだんだから、ともに生きていくという道を選んで欲しかった。

インディアンという民族を漠然としか知らない人は、インディアンてこんな感じなのかというのが少しわかるので、そういう意味では面白いと思う。

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