映画「ゴースト・イン・ザ・シェル(2017)」が“物足りない”理由と考察、その感想

④物足りない☆2

英題:Ghost In The Shell

監督-ルパート・サンダース 2017年 107分

脚本-ジェイミー・モス、ウィリアム・ウィーラー、アーレン・クルーガー

出演-ピルー・アスベック、スカーレット・ヨハンソン、ビートたけし、他

映画「ゴースト・イン・ザ・シェル」のあらすじ

科学技術が進み、人々は脳から直接ネットにアクセス出来、体を機械化することも珍しくなくなった近未来。

警察の中でも極秘の組織、公安9課は、サイバー戦はもちろん、頭脳戦や肉弾戦も得意とする少数精鋭のエリート部隊であり、日夜凶悪なテロやサイバー犯罪を撲滅すべく独自に動いていた。

ある日、ハンカロボティクス社という軍事企業を狙ったテロ事件を調べていくうち、部隊のチーフ、ミラ少佐は、なくしていた自分の記憶と事件が関係していることに気付く。

ミラ少佐は脳以外の全身のサイボーグ化に成功した初めての人間、ということであったが・・・。

“物足りない”理由と考察、その感想

雰囲気をなぞったハリウッド実写リメイク

士郎正宗原作、押井守がアニメ化したゴーストインザシェルの実写版。

原作の漫画、押井守のアニメ映画を見ていて、テレビの神山健二のアニメシリーズもセカンドギグまでは見た私からすると、かなり物足りなかった。

攻殻機動隊の実写化というより、攻殻機動隊の雰囲気の映画という感じで、攻殻機動隊の醍醐味らしいものがバッサリなくなっているといって良い。

アクション作品として独特の機械仕掛けの敵や、そのアジアのような不思議な世界観、前向きな終りのストーリーなど、別物として全く面白くなくはないが、攻殻機動隊が持っている独特の深いテーマにはほど遠く、その表層をなぞっているに過ぎない。

言ってみれば、攻殻機動隊風味の劣化版の別物。

それぞれのキャラクターの設定も原作の謎めいたものから、非常に分かりやすいものに変わってしまっているし、義体や電脳、電脳空間という、人間とは何かを投げかけ得る深いはずの設定もさらっと適当に描かれていて、これが攻殻機動隊を始めて見た人からしたら、独特のアジアのようなどこかわからない世界観も相まって、身近ではない遠くの世界のSFを見ているように感じ、きっと、ふーんくらいにしか思わないんじゃないかと思う。

異国のエキゾティックなアジアの国に置き換えられた日本

この作品は、どこの国か分からないようなエキゾティックな世界で話が進んでいく。

押井守の攻殻機動隊はどこか香港とかアジアっぽい雰囲気が漂う日本だが、神山健二の攻殻機動隊は現代に外観が近い日本が舞台だ。

そもそも押井守の攻殻機動隊が海外で大ヒットした、というのは、日本人ではない人達に受けた訳だから、むしろ少し誇張したエキゾチックさもかえって良かった、ということだし、こんなにアジアっぽくなってしまうのも無理はないのかもしれないが、原作の主要キャストは日本人達だから、やはりちょっと違和感はぬぐえない。

舞台を完全に日本にしてしまうと、日本人が主要キャストで、日本語で話が進んでいくということだから、世界に向けて作品を作っているハリウッドでそれは出来ないということなんだろう。

日本人もなめられたもんだ、とも言える。

忠実に実写化するなら、日本が舞台で日本語で、日本人俳優を使ってやれば良い。

かといって、素子やバトー、主要キャストを演じれる日本人俳優はいるのか?となってくるから、大したことがないものなら、無理に日本人俳優を使ってでさえ実写化する必要なんてないが。

素子は元日本人という設定で、荒巻は日本人俳優、サイトーも日本人俳優だが、トグサはアジア人俳優で、なんとも中途半端でもやもやする。

元々攻殻機動隊は日本が舞台なんだから、舞台が日本じゃないなら、無理に日本人名を使ったり、日本人俳優を使う必要もない。

外国版の攻殻機動隊として、アメリカの摩天楼を舞台に白人、黒人、アジア人俳優入り乱れて、原作の主要キャストに内面が近い人を選んで、全く別物で作ったって良い。

表面上の原作へのリスペクト、日本へのリスペクトなんてそんなものはいらず、攻殻機動隊の魂が入っていればそれでいい。

外国人俳優が演じるために、素子は元々日本人だけど、義体になったから日本人じゃなくなった、とか無理やりなやり口もやる必要はないし、荒巻はお情けでたけしをキャスティングするとかも必要ない。

荒巻とたけしは内面が似ても似つかないし、たけしは荒巻に寄せれるほどのカメレオン俳優でも全くない。

日本にも外国にも良い顔をしようとして、どっかエキゾティックなアジアの国が舞台で、人物設定も中途半端に捻じ曲げ、そんなことをして、面白いストーリーを先々に作っていけるはずはないと思う。

設定の土台がしっかりしていないから、これで続編を作っていくのは厳しいんじゃないか。

日本が舞台で、表沙汰ではない公安9課があり、総理大臣はその存在を知っていて特命で9課を動かし、時には9課の独断で動くこともあり、政治が絡んで海外の大国と駆け引きをしたり・・・というような、SFではあるが、現実的な刑事サスペンス的要素も攻殻機動隊のストーリーの面白さでもあるのに、そんな現実感はあまりのエキゾティックな世界観に飲まれ、きっと出てこないと思う。

出てこないし、そもそもやろうとしていないと思う。

舞台がニューヨークならニューヨークで良かったんじゃないか?

リメイクもとに忠実か、別物にするかどっちつかずで身動きが取れず、自分で首を絞めてるんじゃないかと思う。

分かりやすく変えられた人物設定が謎めいた主人公達の深みを取っている

素子は小さい頃から義体で育った珍しい経歴の持ち主であり、義体の使い方のスペシャリストというのが原作だが、本作では義体に改造された第一号という意味合いが全く違うものになっている。

元々普通の大人であり、瀕死の重傷を負っていた所を改造されて義体になり、その後に9課に来てなぜか格闘が強いというのはめちゃくちゃ。

小さい頃から生身の体を失い、義体の使い方を徐々に学んで努力で常人よりはるかに強くなった、ということだから重みがあるんだろう。

全身義体になったら誰でも強いのか?ある程度は強いのかもしれないが。

素子の独特な性格、常に冷静で感情をあまり出さず、誰と群れるわけでもなく、孤独でどこか哀愁が漂うミステリアスな性格、そんな素子が素子であるべき人格が形作られたであろうことも無視していて、かなり致命的だと思う。

それこそ、素子のゴーストを形成している大事な部分である。

バトーの目はレンジャー部隊にいた時の怪我で義眼にしたということなのに、捜査中の爆風で義眼になった所が描かれている。

素子の義体も、バトーの義眼も、9課に来るずっと前からもうすでにそうだった、ということなのに、そこは変えない方が深みがあって面白いと思うが、昔からそうだった、というのが、見ている側がとっつきにくいとでも思ったのか?

ここらへんを平気で変えてしまう辺りが、いくら日本をちらちら出そうが、全くリスペクトなんてしてないんじゃないかと思う。

アジア人のトグサや、白人のバトーはまあいいとしても、素子の見た目がなんとも安っぽく見えるのはどうにかならなかったのか?

コスプレをしているように見える。

なんでこんな変な髪形にしたのか、カツラをかぶってるように見えるし、ぶかぶかの服を着たりするのも違和感たっぷりだ。

押井守の攻殻機動隊の素子の髪形に寄せようとしてはいるのだろうが、これはむしろ離れているんじゃないか?

アニメには感じない、変な違和感がある。

もうちょっとスカーレット・ヨハンソンに似合うように昇華させても良かったんじゃないかと思う。

ごく普通のヒーロー、ミラ少佐

そもそも素子の背景に深みがない設定だし、ストーリーを変えてしまっても良いが、義体という体を持っただけの、ごく普通のヒーローになってしまっている。

何が攻殻機動隊足らしめるのか、主要キャストや近未来の科学技術が形作る世界観ももちろん、どれが抜けても成り立たないが、特に重要なのが素子の人格である。

素子が持っている考え方、哲学、倫理観、一言一言の重みのあるセリフや立ち振る舞いなど、素子の人格そのものが攻殻機動隊という作品の主軸に間違いない。

話しを都合よく原作から変えてしまっても良いが、ミラ少佐にその片鱗が見えないのであれば、もうそこに攻殻機動隊の影はない。

母親に会いに行くなんて、そんな露骨なことは素子はしないはずだ。

そして、端々に散りばめられた、合理的で、時に冷徹で、超人的でもある素子独特の現実の解釈が込められたシャープな言い回しのセリフなどほぼ見られないがゆえに、これは素子ではないと思う。

仮にそういったセリフがないとしても、立ち振る舞いで深いと思わしてくれたらそれで良いが、ミラ少佐にはそんな片鱗は何も感じない。

普通に自分の境遇と向き合い、普通に受け入れ、普通に前向きになった、そこらへんで見かけるヒーローだ。

素子は自分のゴーストのささやきに従っているだけで、それがたまたま人助けになっているだけで、決して分かりやすいヒーローではない所が魅力的なはずだ。

続編を作っていく感じの終わり方に勝手に感じたが、そういう大事な要素を抜いて、攻殻機動隊を作っていっても、きっと続編もチープなものになるに違いない。

さらっと流される攻殻機動隊独自の科学技術

電脳や電脳ハック、光学迷彩や義体、そこらへんの面白い攻殻機動隊の要素が、全然生きてないと思った。

見せ方がへたくそなんだろうが、電脳の感じももうちょっとはっきりしても良かったんじゃないかと思う。

知らない人が見たら、何が何やら分からないと思う。

設定やストーリーは分かりやすくするくせに、ここらへんはさらっとしすぎている感じがする。

電脳に関して、電脳ハックに関して、義体に関して、もう少し主要の役柄達が一言でも、世界観に関する理解が深まるようなセリフをちょくちょく言わしていっても良かったんじゃないかと思う。

士郎正宗の原作はもちろん、押井守の攻殻機動隊だって、バトーや素子の会話は気の利いたセリフの応酬、哲学的な名言のようなものも多く、単純に引き込まれるし、この世界への理解がどんどん深まっていく。

電脳ハックされるごみ回収車の運転手のシーンも、この人は間違った記憶を植え付けられていたんだ、怖い、とはなりにくい。

アニメでは、素子が過去の記憶を何か一つでも思い出せるか?と運転手に問いかけ、バトーが憐れむようなセリフを言い放ち、見ていてその事態の重さが分かる。

そういう原作やアニメにある良い意味の説明の描写をそぎ落としてしまって、なおかつ、それを補てんする描写もないから、この監督は見せ方が下手なんだと思った。

攻殻機動隊独特の、耳触りの良い格好良いセリフもほぼなかったように思うから、本当の意味で攻殻機動隊の面白さや良さが分からず、表面上だけしか理解してない状態で、これは良いと言って実写化したようにしか思えない。

光学迷彩だってもっとアニメではめちゃくちゃ格好良かったが、この作品だと全然そう思えない。

水たまりで戦うシーンは変なボディスーツで特にダサさを感じた。

ピタッとした服を素子に着せるなら格好良くなければいけない。

もっと昇華してスタイリッシュにしてしまえば良いのに。

最後のシーンの多脚戦車も、大して迫力を感じなかった。

素子がやばい、とギリギリでよける感じや、多脚戦車の圧倒的な火力など、アニメではかなり迫力があったのに。

漫画だってもちろん緊迫感があって良かった。

この作品では、なんか変な虫みたいなロボットが出てきたくらいにしか思わない。

それは、混沌とした世界観にしてしまったために、紛れてしまって際立たなくなってしまっているだけでなく、そもそも必要な会話劇もそぎ落とされてしまっているし、全体的に緊張感なく次の場面にだらっと進む展開が続いているからだろう。

もっとシンプルに攻殻機動隊を表現すれば良いのに、ねじれて表面上だけ表現している感じが残念だ。

ストーリーはアニメシリーズもなぞった表層の話し

素子は瀕死から蘇って全身義体第一号、という設定から酷いからもうどうしようもないが、アニメシリーズに出てくるクゼの名前も使って、人形使いの話しと微妙にミックスするというめちゃくちゃなものになっている。

大幅に変える所もあり、微妙に変えてくっつける所もあり、結果どの話も面白く再現できていなく、全体として要素が薄まり、一体何がしたかったんだ?と思う。

何がしたかったのか、それは無理やりにでもハリウッド俳優が起用できる形に作り変えて、シリーズ化したかったんだ、ということだろう。

そこに攻殻機動隊の原作、アニメシリーズ、アニメ映画に対するリスペクトなんてない。

押井守は、自由にやってもらって良い、スカーレット・ヨハンソン以外にやれる人はいない、みたいなことを言っていたらしいが、何を悠長なことを言っているんだろう?

なめられている以外の何物でもない。

まさか、押井もこんな作品になるとは思わなかったのか?

さもなくば、押井守は、攻殻機動隊のことを何もわかっていないということになる。

全て忠実にやるか、やらないなら全くの別物にするかして欲しかった

きっと、原作やアニメを踏まえつつ、良いように昇華させて面白くした、つもりなんだろうが、これならやらない方が良かった。

こんな中途半端な練り方で世に出してしまう、その労力がもったいない。

もうちょっと時間かかっても良いから、リスペクトなんて余計なこと考えずに、これが外国版攻殻機動隊だ、と言えるものをせっかくだから作って欲しかった。

その方が、出演者や制作陣だって、絶対にやり応えがあって面白いはずだ。

攻殻機動隊に影響を受けた作品として、ウォッシャウスキー兄弟のマトリックスがあるが、あれは攻殻機動隊とは全く違う世界であるが、むしろマトリックスの方が圧倒的に攻殻機動隊らしいと言える。

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