パーフェクト・デイズ 英題:Perfect Days
監督-ヴィム・ヴェンダース 2023年 124分 アメリカ
脚本-ヴィム・ヴェンダース、高崎卓間
出演-役所広司、柄本時生、アオイヤマダ、中野有紗、麻生祐未、石川さゆり、田中泯、長野短、三浦友和、他
映画「パーフェクト・デイズ」のあらすじ
古いアパートに住む公衆トイレの清掃員、平山は、日々の些細な瞬間を大事にしながら、ささやかだが優雅な一人暮らしを送っている。
決まったルーティンをひたすら繰り返し、同じような日々を送っているが、いつも心に静かな楽しさを抱いている。
トイレを利用する人に冷たくされたり、いい加減な同僚に振り回されることもあるが、平山の日常が壊れるほどではなく、それもまた楽しい一風景として過ぎ去っていく。
銭湯や飲み屋での夕食、写真の仕分け、読書、たまのスナック通いなどを楽しみにしている。
ある日、しばらく会っていなかった姪が突然平山の前に現れる。
家出をしたらしく、泊めることにした平山だったが、それ以降、平山の日常に変化が起き始めるのだった。
“観て損はない☆3″理由と考察、その感想
清掃員の美しい日常
序盤からトイレ清掃員の日常がひたすらと淡々と繰り返し描かれ、美しい東京の映像とともに、ドキュメントのようなリアルな生活描写に次第に引き込まれていった。
全体を通して、繰り返す日常の中にも些細な、時には日常が大きく変わり得る変化も起きるが、それでも最終的には元の日常に戻っていく感じが心地良く、表向きは特に大事件が起きる訳では無いが、平山の成り行きが気になり、ついつい最後まで見てしまう。
しかし、平山の振る舞いに違和感を少し感じたり、平山の過去を気にさせられる描写もあり、見終わってすっきりする感じはなかった。
あれは何だったんだ、と頭の中で反復させられる感じが、平山という人間性や生き方の潔さを深く理解するための良い咀嚼になると同時に、それでもやはり少しだけもやつきが残ってしまった。
なぜなのか考えていきたい。
ドキュメントのようなリアルな映像
序盤からまるでドキュメントのような平山の日常描写が、最初はただ見るだけだったが、気付いたらまるで自分が他人の人生を覗き見しているかのような感覚に陥り、目が離せなくなる。
映像自体の解像度のキレイさもさることながら、作為的でないリアルな日常の一風景、それは平山の行動だけでなく、近所の人や通行人、街の様子などが絶妙に切り取られ、挿入され、この世界観を作りものでない、リアルなものに昇華させている。
特に風景が非常にきれいで、それは都会も、その中にある自然も、東京ってこんなにキレイだっけ?と思わされるくらい美しく、この作品が持つ静かだが前向きな印象を形作るのに大きく貢献している。
雑多な住宅街や街並みはそれはそれで味があり、最先端の都会と自然と雑多な古さが調和して成り立っているこの東京という街は、いかに不思議で魅力的な街なのか、と思わされる。
きっと、これはそこに住む日本人では発見出来ない視点なのかもしれない。
当たり前で近すぎて、美しい景色があることなど、中々気付けない。
本当は、日本人がこういう映画を作っていかねばならないが、ここまで強烈に東京の美しさを感じれている、表現したいという欲のある日本人監督はほとんどいないだろうし、ハリウッドのような派手さのある内容ばかりを追い求めていたら、こんな映画は絶対に撮れないだろう。
序盤の平山の行動も自然で、むしろ誰ともあまりしゃべらずに進んでいく描写が、ドキュメントのようだがドキュメントよりも面白く、リアルに感じられて良い。
ドキュメントはリアルだが、出演者にカメラで撮られている、という意識が少しでもあれば、行動が少なからず変わってしまい、完全なリアルとは言えない。
なのでそこを超えるには、見られていることを知った上で、一人で居るときと同じ、自然に振る舞える特殊技術を持つ、役者を使った、映画という媒体しかないのではないか、と思わされる。
都会の晴耕雨読、仙人的な平山
平山は仕事の日は、朝起きて布団を片付けて、植木に水をやり、歯を磨き、着替えて髭を整え、決まった持ち物を持ち、いつもの缶コーヒーを買って、車で洋楽のカセットを聞きながら仕事に向かう。
このルーティンは、平山はもちろん何も言葉を発さないが、楽しい感じが伝わってきて良い。
特にカセットの洋楽の音楽が、無口な平山の静かな楽しさを物語っている感じがして、見ているこっちも少し楽しくなる。
朝からそんな感じで仕事に行き、ハードなトイレ清掃をこなし、時には同僚に手を焼いたり、お客様さんに冷たくされることもあるけど、大した問題ではなく、終わったら銭湯の一番風呂で汗を流し、夕食は駅前のいつもの飲み屋でいっぱいやり、家では寝る前に読書をして、眠くなったら寝る。
始まって30分くらいで、この平山のルーティンを見て、確かにこれはパーフェクトデイズだと思った。
これ以上の生活があるのか、とも思う。
都会における晴耕雨読とも言うべき、適度に働き、適度に贅沢し、誰に気を使うわけでもなく、一人でやりたいことをやって生きていく。
ある程度仕事がハードだからこそ、あの一杯や銭湯が、より体に染みるんだろう。
定年退職という言葉があるが、何も仕事がなく、贅沢し放題でも、それは人によっては本当に幸せとは言えないのかもしれない。
かといって働き過ぎも落ち着かないので、この平山のように、バランスが取れた働き方を取り入れたルーティンこそ、多くの人にとって健全なんじゃないか、とも思う。
平山が定年かどうかは不明だが。
日本人は、そもそもが働きすぎなんだろう。
恋人や子供がいればなおさら、責任を背負ってがむしゃらに働く。
それが好きな人もいるだろうが、そういう責任から解放されてしまえば、こうも楽に生きられるのか、と思う。
きっと平山は、最初からこういう生活にたどり着いたのではなく、かつては持っていたであろう責任や義務から、何らかの経緯で解放され、紆余曲折あって行き着いたんだろう。
前半部は、そんな平山の描写が素敵に描かれている。
ハードルの高い平山のルーティン
平山の様な生活は憧れるが、普通は家庭を築くべきだとか、一人で淋しいなど、平山の真似をしても、どこか頭の片隅で消えない焦りや、心に空いた穴を埋められず、楽しめないと思う。
平山は年齢のせいもあり、普通の人が持ち得る可能性をある程度捨てられることが出来ていて、それに対して後悔もなく、スッキリしている様に見える。
ある意味ちょっとした仙人のようで、結構な人生経験があるからこそ出来ることかもしれない。
もし自分だったら、平山のようにはなれない、それは仕事に対しても日常に関しても。
仕事で、助けてあげた子供の手をあからさまにその母親が目の前で消毒したり、清掃中の看板を酔っ払いに蹴らりたりした時に、自分は平山の様に笑って受け流せない。
お帰りなさい、と言ってくれる店長や知り合いがいる飲み屋にも行きたくないし、スナックの常連にもなりたくないし、なれない。
一回行き始めたらずっと行かなきゃいけないんじゃないか、というプレッシャーになるし、つまらない客に絡まれたら、腹が立ってしょうがない。
ちょっと間が空いただけなのに店主の対応が素っ気なくても嫌だ。
ママが自分をひいきしてくれるのはまんざらでもないが、逆なら耐えられないし、そこで変ないさかいにもなりたくない。
同じ写真屋に現像するためのフィルムを持っていく時も、あのやる気のない店主に会うのがストレスで、店を変えるだろう。
仕事は割り切って乗り越えたとしても、平山が自分への褒美や趣味で行っていることが、自分には大分ストレスになり得ることで、その平山のご褒美ルーティンに変わる自分なりのルーティンを、果たして見つけられるかどうか疑問だ。
自然に行き着くのが理想だが、無理やり探そうとしている時点で、それもストレスになる。
平山がストレスを感じないどころか、むしろどれも彼にとって居心地の良い場所であるとしたら、それはある種の奇跡である。
きっと平山は、そんなにカリカリしせず、適当に選んだ場所で、最低限を満たしていればそれで良く、何も期待していない、という達観した仙人的境地
なんだろう、と思いたい。
そうであれば、この平山のパーフェクトデイズは腑に落ちるし、憧れすらする。
ところが、そうでもない、という描写もあるので、そこが少し引っかかる所ではある。
平山の無口さが少し不自然で、統一感が欲しい
平山の、特にしゃべる時に力も入ってない時の言い方は、セリフっぽくなく、リアルでとても良い。
序盤からのセリフがほぼない感じは、より平山のルーティンの素敵さを際立たせていて良かったと思う。
しかし、平山の無口さは、全体を通して見たときに、朴訥で言葉が出てこない、しゃべるのが苦手で無口という訳ではなく、しゃべれるのにあえてしゃべらないようにしている、という印象に変わってしまうので、少し不自然に感じた。
なぜなら、平山は物事の理解力も遅くないし、姪としゃべっている時は、多弁ではないけど、実に感情豊かにしゃべっていたからだ。
大きくなったねぇ、とか、そう言ってた?ママとケンカした?とか言う感じも、優しい感情があふれている人間のしゃべり方だ。
人と接するのが苦手な人のしゃべり方ではなく、むしろ逆だ。
そんなに感情豊かにしゃべれる優しい人間が、掃除中にお客さんと接するとき、同僚やその友人女性に話しかけられている時は、ほとんど言葉を発しようとしないのが、なぜなのかよく分からない。
掃除をしてるのに、冷たい態度を取ってくるお客さん、あの酔っぱらいやあの女子高生には、ちゃんとしゃべる必要はないだろうが、興味を持って質問してきた外国人や、トイレを使おうとした腰が低い感じのおばあさんにも、ほぼ何も言わないのはなぜだ?
そして、何も言わずにそのまま外に出て立って待つ感じは少し威圧感もある。
言葉は発さずともニッコリとして、ジェスチャーも交え、はっきりボディランゲージでしゃべっている訳でもない。
少しうなずいたり、顔でしゃべってはいるけど。
子供には優しかったし、休憩中に横にいたOLには少し笑って会釈していたのに。
平山の同僚は、掃除中にほぼ何も返答しない平山にガンガンしゃべりまくっていたけど、あまりに黙り過ぎなんじゃないか?
ああ、とか、そうか、とか、うるさい、とか、何らかの相槌がなければ、優しい平山のキャラクターには合わない。
こんな奴が職場にいたら、うっとうしいのは間違いないが、それにしても言葉を発さなすぎだと思う。
同僚の友人女性がカセットを返しに来た時の会話も、もっと普通にしゃべれば良いのにと思う。
もし、序盤の無口なキャラクターで通すならば、姪としゃべる時も、もっと感情を込めずに、セリフも途切れ途切れで、棒読みっぽくしゃべって欲しかった。
姪としゃべる時の言葉に込められる感情が豊かすぎて、違う人になっている印象を受ける。
もしくは、言葉を発さない感じをなしにして、お客さんにも同僚にも、もう少し普通に接している方が、姪との感じが浮かずに統一感があったんじゃないかと思う。
お客さんがトイレに入ってきたら、どうぞ、と心地良く譲る方が合ってるんじゃないか?
本屋の変な女店主にも一言も言わないのではなく、適当でもちゃんと返事をし、逆に写真屋の主人が無愛想で無視されても、平山の方はしっかり声を掛けて出ていく方が良い。
隠しきれない感情豊かさが出てしまうくらいなら、無口でなく、全編感情豊かで行って欲しかった。
姪に、海にいつ行く?と聞かれた平山は、今度、と答え、今度っていつ?とさらに姪に聞かれて、今度は今度、今は今、と答え、それを歌詞にして歌い出した姪に合わせて、平山も一緒に歌っていたが、これも無口な平山には合わない。
むしろ、歌い出した姪を放っておいて、何だそれ、とだけ言うくらいの方が平山らしい。
ちなみに仕事中の平山がお客さんに基本的に愛想がない感じは、外国的な視点なのかもしれない、と思った。
職種や人にもよるけど、外国では適当な、やる気のない店員もかなり多い印象を受ける。
日本では、いらっしゃいませ、ありがとうございました、が、何も買わなくても店内で飛び交っていることも多いが、外国は必ずしもそうではない。
日本では、態度の悪い店員はレアだが、外国では普通のことだ。
平山のいきつけの写真屋の態度は、悪態をついている訳では無いが、素っ気無く、あんな感じの店員は外国にはそこそこいる印象だ。
だけど、プライベートではすごく良い人だったりして、多くの日本人とは逆の態度だったりする。
そう考えると、平山はむしろ外国人から見たら、まだ普通よりもちょっと態度が良い部類なのかもしれない。
しかし、平山の態度の統一感のなさは、少し引っ掛かる。
尻拭いにブチぎれ、ママの抱擁に落ち込むダサい平山
平山は多くは望まず、日々の仕事やちょっとしたご褒美を楽しむ、素敵な日常を送っていることは確かだが、怒ったり、落ち込んだりする描写が浮いていると感じた。
同僚が急に仕事に来なくなり、その分の尻拭いで、平山は夜まで現場を掛け持ちした。
さすがに激務だったのか、会社との電話で、誰かよこして、毎日は無理だから、と怒る感じがヒステリックで、少し怖い感じもした。
こんなに感情が許容範囲を超えて爆発する時点で、もうパーフェクトデイズではない。
怒るなとは言わないが、笑いながら、毎日は無理だよ、死んじゃうよ、というくらいの余裕さが見たかった。
平山にスマートさを勝手に望んでいたので、ブチギレている姿は見たくなかった。
清掃員の仕事で、アルバイトであれば誰かの急な当日欠勤はあるあるなので、平山がこの仕事を何年やっているのかは知らないが、熟練するまでやっていれば、今まで少なからず経験してきたことだろう。
あの適当な同僚タカシであればなさら、いつ来なくなってもおかしくないのはすぐ分かる。
なので、平山くらいの年齢のベテラン清掃員で、このブチギレ方は致命的な人間的欠陥だと思う。
もし会社に嫌な言い方されたとしたら、ふざけるな、と思うのは分かるが。
さらに、行きつけのスナックに行くと、ママが知らない男と抱き合っているのを目撃してしまい、やけになったのか、普段吸わないタバコと缶ビールを買って川沿いで飲みだす感じも、しょうもない。
確かにショックというか、ママが客に見せてはいけない姿だとしても、そこまで怒らなくても、と思う。
コミカルで良いと言えばそうだが、怒らずにニヤリと笑って、今日は川で一人飲みを楽しむか、くらいにいなして欲しかった。
ご褒美の一環として軽い気持ちで楽しんでいたのではなく、ガッツリのめり込んでいた、としたらなんとも俗世間的で、格好良くない。
そりゃそんなことだって起き得る。
自分はひいきされてまんざらでも無かったくせに、この状況を受け入れられないのは都合が良い。
俺、なんか期待しちゃってたな、バカだな俺、と自分のしょうもなさを楽しんで笑うとかだったら格好良かった。
なので、思い切り感情を振り回されてしまっているこの2つの出来事は、パーフェクトデイズでもなんでもなく、普通のおじさんの悲哀になってしまっている。
普通より酷いかもしれない。
同僚の友人の女性にほっぺたにキスされて、それを風呂で思い出してニヤける、とかはコミカルだけど。
トイレに隠れていた子供を連れ出して、平山がつないでいた子供の手を母親があからさまに除菌することにも、笑ってやり過ごせたのに。
子供が振り向いて手を振ってくれたから笑えたのか?
怒ってはいけない、という訳ではなく、その怒り方に節操がなく、人格が変わってしまっている。
平山は一見深みのある仙人的な雰囲気もあるが、実は普通の人間で、確立した様に見えるルーティンも、何かをきっかけに呆気なく壊れてしまう、と言いたかったとしても、極端だ。
平山もまだ模索中、ということか?
写真を分けるのも、何を思ったか止めてしまった。
姪の一枚の写真の方が、何百枚の木漏れ日よりも勝っていた、ということか?
スナックに行けなければ、駅前の飲み屋に行き、そこもダメもなら川べりや家で飲み、もしくは写真を整理したり、読書したり、本を買いに行ったり、一つがダメでも他のことで発散出来る、というシステムでなければ、多趣味である意味がない。
好きなことがたくさんあり、どれも好きであるなら、一つが上手くいかなくても平気だろうが、平山はきっとどれも本当に好きではないのか?
自分は何が好きで何がしたいのか、どんな空間なら落ち着くのか、今だに探している最中ということか?
まるで若者みたいな未完成さだ。
死ぬまで分からない人もいるだろうから、平山はまだ自分の居場所や趣味を見つけ出していた方なのかもしれない。
年齢に関わらずいくらでも自分探しすれば良いと思うが、平山の年齢は知らないが、良いおじさんがスマートなおじさんの真似をしようとして失敗している感じが何とも格好悪い。
定年になって頑張って趣味を見つけようとして失敗している人の様に見えなくもない。
なので、もし平山がまだ20代の若者とかなら、これらの失敗も含めたこのストーリーはしっくり来たんじゃないかと思う。
姪の出現による影響はひとまず置いておいて。
若者が背伸びをして格好つけて、独自のルーティン作りに失敗したなら、そりゃそうなるだろう、そんな上手く行かない、と思えてかわいいし、面白く見れたと思う。
平山の未完成さに魅力はない
平山は、役者の演じ方で、深い面と浅い面、両方本当にそう見える様に振る舞っていて、どっちも真実で、平山も完璧ではなく、未完成な人間である、と言いたいのかもしれない。
しかし、深い面と浅い面が同じ人間に見えないので、リアルな人物描写ではない。
平山の無口の件と少し似ているが、客に冷たくされても、外で雨の中待たなくてはいけなくても笑えたり、姪や妹と接する時のように、感情豊かで優しい人間が、仕事量が一時的に増えたり、ママの抱擁を見た、などという大したことのないことで、こんなに心乱される訳が無いと思う。
なぜこんなにもしょうもない部分があるのか、普通を下回る欠陥人間なのか、それなりの理由がなければいけないが、特になさそうだ。
平山には裏事情があるが、それとも関係なさそうだし、関係あるならあるで、全く別の話になってしまう。
実は昔に起きたなんらかの事件で心の病気を抱えていた、などとすれば、それこそ特殊な男の数奇な物語で、清掃員の物語からはズレてしまう。
しかし、これはリアルな清掃員の日常ではなく、まさに平山という数奇な男の物語だ。
平山は全体を通すとアンリアルな人間で、未完成も含めて人間らしいよね、とは思える作品ではない。
この平山の未完成さは、邪魔な未完成さで、高みを目指した、現状でも十分すごい未完成ではなく、本当に低くてダメな未完成だ。
主にそんな未完成さに良さを感じるのは若者に対してであり、中年を超えた年齢のそれに味があるとは思いづらい。
むしろ、この年齢でこの状態って、治らずに死ぬまでこのまま行くんじゃないか?とも思って微笑ましくない。
深い部分もある平山は、リアルに猫写するなら、そんな部分があってはいけないキャラクターだと思う。
年齢に関わらず、あらゆる失敗をも超えて先に進んでいく、というメッセージだとしたら、怒りが浅くてしょうもないので、メッセージとしては弱い。
なので、リアルに見せるのであれば、平山の人間性をぶれさせる必要はなく、外部的な要因でパーフェクトデイズが崩れそうになる猫写だけで十分だっただろう。
同僚の尻拭い、ママの抱擁など、イレギュラーなことでいつものルーティンが成立しなくなるが、平山は、いつも掃除中に笑う様に、ニヤッと笑うだけで、特に怒ったり落ち込んだりもない方がリアルな強い面白さがある、と思う。
ついてないな今日は、というくらいで。
なので、自分としては、浅い平山でなく、全て深い平山で演じて欲しかった。
憧れるような深い平山の方が、しょうもない浅い平山よりも、明らかに見ている者に強いパワーを与えるのは間違いない。
平山の過去が気になる、ラストで泣いた理由
この作品で、平山がどういう人生を送ってきたのか、ということは何も描かれない。
それは、観客に残された余白であり、映画が終わってからも考えて楽しめる良い面と、そうでない面の両方あると思った。
最後のシーンでなぜ平山が泣いているのか、というのは、最初はどういうことなのか、と戸惑うが、考えると自分なりに腑に落ちなくもない。
平山に何か少しくらいトラブルがあったとしても、繰り返す日常のサイクルさえ壊れなければ、むしろそのサイクルは以前よりも深みを増し、強固になり、永遠に回り続ける。
一昨日は楽しかった、昨日はそこまで楽しくなかった、としても、また日は昇り、新しい日が今日も待っている、どうなるかわからないが、その成り行きに今日もワクワクしている。
好きな音楽に加え、太陽の陽が絶妙なタイミングでそんな自分を肯定し、正解であると背中を強く押され、生きていることを実感した。
その嬉しさに感動し、涙が込み上げてきた、ということなんじゃないか?
泣いた具体的な理由は、過去に色々あったから、ということで、それが正確には何かは分からない。
こんな自分にもこんな良いことが訪れるなんて、と思ったとすれば、それは大事な人を失った、自分の中にある強い喪失感や、誰かや何かに対する償いの念を常に抱えていたんじゃないかと思う。
例えば、長年連れ添った妻を不慮の事故などで亡くし、定年を迎えて働かなくても良いが、いつまでも過去にすがってはいけない、とボロアパートに住み、新しく仕事を始めた、とか。
あのスナックに行くのは、ママが死んだ妻に似ているから、とか。
最後のシーンでかけた音楽は、妻も好きだった音楽で、妻も自分を後押ししてくれているように感じたから、とか、色々考えられる。
でも一番有力なのは、ニコが娘で、生きてればまた会える、いや会う、と思って嬉しくなったんじゃないか?
分からないけど、良い意味で色々想像を掻き立てられる。
子供とすぐに手をつなげる感じや子供が始めたと思われるマルバツゲームに付き合う感じは、年の功や、姪がいたせいもあるだろうが、かつて子供がいたのかもしれない、もしくは子供が好きで欲しかったけど恵まれなかったのかもしれない。
平山が外国人に話しかけられた時に瞬時に意味を理解して反応した感じを見て、実は平山は英語がペラペラなのか、とも考えられる。
もしかしたら、英語は多少知っているのに加えて、同じことをよく聞かれるので、言いたいことは分かる、ということなのかもしれないが、平山なら英語がペラペラでもおかしくない、とも思わされる。
平山の仕事ができる感じ、理解力のある感じや品の良さ、ルーティンを確立し、守り続けられる意志の強さと行動力がある感じなどから、きっとかつては良い会社でそれなりの地位を築いていた人なのかもしれない、とも思う。
実際にそうだったかよりも、それなりのポテンシャルを感じさせるものがその振る舞いにはある。
浅くない時の平山に関してだが。
実際は何も過去などない、ただの独身の男で、定年後にたまたま良い仕事と趣味を見つけられただけだ、と言われても、別に構わない。
この人には、何かあるんじゃないのか、実はすごい人なんじゃないのか、と思わせる深みがあることの方が重要なので、こっちが勝手に想像するだけで十分で、正確な答え合わせをする必要はないと思う。
知るのはやぶさかではないが。
この年齢になって初めて、働くことの、生きることの楽しさを知った、ということもあり得る。
そうやって、見終わった後に、平山の過去に思いを巡らす事が出来るような、深みのある人物描写が全部ではないがあるので、余韻を楽しめて良いと思う。
役者のマンパワーは大きいと思うが。
深すぎる闇は余計に感じる、思わせぶりなハグ
しかし、上述した平山のマイナス面だけでなく、家出した姪を迎えに来た妹に、別れ際にハグし、一人家の前で泣いたのは余計な描写だったんじゃないかと思う。
日本ではハグ文化はまだ日常ではなく、平山の年代ならなおさらだ。
なので、よほどのことがあったんだろうな、と思ってしまう。
平山は父をまだ許していない様だが、妹は、父は昔みたいな感じじゃない、というようなことを言っていたので、父は昔家で暴力を振るっていて、妹がよく標的にされていたのかな、とか。
もしくは、妹ではなく、実は妻で、上述した様に姪は実の娘で、何らかの事情があり、父ではないことにしたとか、もっと言えば、姪は父と妹との間に生まれた子供である、とか。
平山のこの日常を構築するまでには、誰もが驚くようなとんでもない裏事情があった、などという、サスペンス的な楽しみ方を自分は望んでいなかった。
しかし、このハグや泣きはそれを醸していて、この作品をより難解なものにしている。
闇や裏事情はあっても良いが、深すぎる必要はないし、それに持っていかれすぎな振る舞いの描写はいらなかった、と思う。
平山が外国人であれば、ハグ自体は比較的普通のことなので、これも外国人的な描き方だとしても、その後に泣いたのが、明らかに裏事情がある、ということだろう。
父と仲が悪く、父と絶縁の様な関係になっていて、父は妹に平山に会うな、と前々から言われていて、久々に会った、くらいでは済まされない何かがある。
ただ、ハグも泣きも全くないと、姪が実の娘かもしれない、と観ている側が考えられる隙がほぼないので、後で撮ったニコの写真を見て、笑いながら少し涙ぐむくらいは入れても良いかもしれない。
あくまで、最後の車の中で泣いたような、ポジティブとセットの泣きであって欲しかった。
ついでにいうと、妹との関係も良好でないほうが面白いと思った。
妹は、こんなとこに住んでるの?別に悪い意味じゃなくて、と言っていたが、むしろ悪い意味で嫌味で言った方が良い。
そして、汚いものを見るような目で平山を見るが、平山は何も怒らず、むしろそんな妹を逆に笑っている、とかだったら面白かった。
外側でしか判断できない妹に、平山のパーフェクトデイズは理解出来ない、くらいの対比があってもより面白かったんじゃないかと思う。
味のある脇役たち
同僚タカシの金髪の友人女性は、演技っぽくなく、自然で良かった。
俳優ではなく、ダンサーの人だそうで、存在感が良い。
同僚のタカシは、しゃべり方に演技っぽい、セリフっぽい感じがあるが、本当に適当に見えるし、その場しのぎでむかつくし、遅刻はする、人のカセットは盗む、平気でバックレるなど、人を舐めている感じが悪くない。
舐めていることにも気付いていない、若い人特有の信用出来ない雰囲気がある。
障害を持っている幼馴染と何の壁もなく接する感じを見ても、平山に対しても特に悪気なく接しているんだろう。
しかし、大分誇張されていて、こんな奴はさすがにいないかもしれない。
ほとんど返事をしない平山にも関係なくガンガンしゃべりまくる感じとか、障害を持つ幼馴染と同じ目線で遊べてしまう感じ、バックレる時も一応電話して、飛びます、と伝えている感じとか、肝が据わっているし、逆に大物になるんじゃないか、という気もする。
ムカつくけど、憎めない感じもある。
平山を揺さぶる相手としては、必要で悪くないので、もう少しリアルな雰囲気だったらより良かったかもしれない。
平山の行きつけの古本屋の女主人とのシーンは、少し変な感じだった。
平山が何か本を買うたびにいつも小説の感想や作家についての見解を平山に述べるが、平山は笑顔を見せていたものの、2回とも全く言葉を発さないのは、ちょっと冷たいと思う。
平山は本来は優しい人で、特にしゃべるのが苦手な感じでもないので、もう少し反応しないと不自然だと思う。
確かに、とか、いいですよね、くらい言って欲しい。
客なので気を使う必要なんてないし、店主はちょっと変わった人なのだろうが、大分素っ気ない。
平山がいつも休憩する神社で、たまに一緒になる暗い雰囲気のOLの人は、味があって良かった。
ステレオタイプな見方かもしれないが、いかにも事務員で、この人以上に事務員っぽさのある人はいるのか、という漫画みたいなOLというか、キングオブ事務員とも言うべきか、一言も発さないが、独特な存在感がある。
銭湯の常連のお爺さん2人は、平山が姪を連れて帰るのを見て、静かに前に乗り出したのが、リアルにざわついている感じが表現されていて良かった。
平山以外の登場人物たちも、それなりに味がある人もいて悪くない。
平山という清掃員の生活はリアルか否か
主人公の平山は、60〜60代半ばくらいで、物が少なく整頓された、畳のある古い風呂なしの2階建てアパートに住んでいて、仕事はベテランの公衆トイレ清掃員、人付き合いはなく、仕事と趣味の日々を淡々と繰り返す。
趣味は読書と木漏れ日撮影、若木を育てること、たまのスナック通いで、風呂は銭湯、食事は駅前の地下街の飲み屋で済ます。
休みの日には部屋を掃除し、仕事着をクリーニングに出し、古本屋で本を物色する。
髭は毎日綺麗に整え、身なりもそれなりに清潔感を保ち、洋楽のカセットをこよなく愛している。
この平山の生活は果たしてリアルかどうか、と問われた時に、こんな清掃員は恐らくいないので、清掃員のリアルではないが、こんな清掃員がいてもいい、いて欲しいという願望はあるし、いてもおかしくない、と思わす演技力がある。
特に読書、木漏れ日撮影、若木の育成、洋楽のカセット、というのがあまりにおしゃれすぎる。
この趣味を見たときに、平山の中には詩的な思考が常に流れていて、こういう趣味を持つおじさんが、一番ハードな職種である清掃員をまず選ばないのではないかと思う。
それが故に実はすごい人、深い人なんじゃないかと思わす、一つの要因になっているんだろう。
選んでいるのは格好良いが、そんな自分に酔っていると言えなくもない。
清掃しているトイレは、世界からも注目される日本の最先端のトップ公衆トイレであり、そこを選ぶのもまたおしゃれである。
たまたま配属されただけなのかは知らないが。
悪く言えば見栄っ張りだが、トイレ清掃を生業にしてボロアパートに住む、という生活環境の中では、出来得る最高の生き方を模索し、実行している、と言えるかもしれない。
裕福ではないが優雅であり、役所広司の深みも相まって、格好良く見えるんじゃないか?
畳のある、整頓された二階の部屋は、禅の世界にも通じる美しさがあると思う。
そこで行われる決まったルーティン、布団を片付ける、植木への水やり、着替え、写真の仕分け、などという作業の繰り返しが、決まった作法のある茶道の様な雰囲気を感じさせなくもない。
役所広司の渋さも相まって、現代のサムライ、と言うと格好良く言いすぎだが、外国人から見ると、日本文化が感じられて、なおのこと魅力的に見えるんじゃないかと思う。
実際にこういうボロアパートに住む人の家は、ほとんどがここまで整頓されておらず、もっと雑多な空間になっているだろう。
全てのボロアパートの中身が平山の家みたいなら素敵だが、そうではないので、実際に即したリアルではない。
それでも、前半部分は、余計な物を捨て、多くを望まず、日々の些細な喜びの瞬間を大事に生きる、前向きで謙虚で、憧れの念すら抱ける格好良いおじさん像であったと思う。
ただのおじさんバージョンも見てみたい
平山の不必要なぶっきらぼうさやヒステリックな感じ、思わせぶりな過去など、気になる部分はあっても、平山のルーティンを興味を持って見れたし、非日常を感じることは出来た。
物語と調和しつつ、かつ現代の東京をここまで美しく描けている作品を他に知らない。
そういう意味で貴重な作品である、と思う。
しかし、平山は品がありすぎて洗練されているので、もう少し小汚い、と言うと失礼だが、普通のおじさんのパーフェクトデイズも見たいと思った。
平山ほどの裏事情はなくても、一人暮らしの深いおじさんはいるだろう。
むしろ、裏事情があると、それが深さの理由になり得てしまうので、特に何もない方が面白いかもしれない。
仕事がプロフェッショナルで、ただ一人暮らしが気楽で、それを満喫しているおじさんで良い。
そのおじさんの振る舞いが深ければ、こっちが勝手に想像して楽しめる。
平山も序盤はそんな感じに思えたが、それ以降は、平山の無口さがブレてきたり、マイナスな人間性や深すぎる裏事情が垣間見えたり、素直に良いと思えなくなっていく。
なので、自分の中ではこの作品は、最初の30分くらいで7割方完結している、と言っても過言ではない。
理想を言えば、様々なハプニングや闇はあっても良いが、過度な無口なシーンをなしにして普通にし、余裕のある怒り方で、過度に泣いたりもせず、生活空間ももう少し雑多で、スタイリッシュ感も少なくて良いと思う。
無口なら無口でも良いが、統一して欲しい。
ひげもおしゃれだし、洋服もそれなりに格好良く見えるし、まだ女性にモテることをそこそこ考えている感じも不必要な気もする。
若者であればそんな煩悩にまみれた感じも、違和感はなかったかもしれないが。
東京が舞台のおとぎ話だった
この作品は、一見清掃員のドキュメント風ドラマだが、実はそうではなく、ドキュメント風のおとぎ話だったんだ、と思うと不自然な部分も大方腑に落ちる。
前半部分のパーフェクトデイズは、実際に魅力的な描写だと思うが、実は平山の自己陶酔的なうわべの生活で、本当に見せたいのは、それが壊れ、現実を見つめて、最終的に本当のパーフェクトデイズを求めて一歩踏み出した、ということだと思う。
なので、実はパーフェクトデイズはこの作品の中で一度もなかったんだろう。
平山は、起きてからの自分のルーティンを確立しているが、なぜか家の鍵を閉める描写は一度もなく、家を出たらすぐにコーヒーを買いに行っていた。
準備の中で一番重要なことを怠っているまま、自分に褒美を与えてしまう行動は、この日々がパーフェクトデイズではないことの暗示だと思う。
前半部の平山は、自分なりに楽しく気ままな日々を過ごしていたが、浮かれ、現実逃避して楽しんでいたに過ぎない、ということだろう。
夢見心地というか、妄想だった可能性もある。
平山自身も、これが最上の日々だと勘違いしていたが、ニコが来たことで現実を突きつけられ、歯車が狂っていく。
いつも自分と同じか、下の存在がいると安心させてくれた、公園にいるホームレスは消え、仕事が激務でキレてしまい、木漏れ日写真整理もやる気をなくし、ママが男と抱き合っているのを見て激しくショックを受けてしまう。
自分にとって一番大事な現実、平山にとってはニコ、を見ないようにして築いた日々など、所詮はうわべで、何かのきっかけで崩れ去る、ということを示しているんじゃないか?
好きでやっていると思われた趣味や仕事や、日常のルーティンも、本当に好きではなく、現実逃避の慰めに過ぎなかった、ということかもしれない。
平山の白黒の夢の中で、小さい子供と手をつないでいる映像があり、これは大人の手が平山だとしたら、小さい手は実の娘の可能性が高い。
姪と手をつないだはるか昔のことを夢に見るとは思いづらく、思い出すとしたら娘との思い出のはずで、ニコが来て平山のルーティンが壊れたことを考えても、ニコは実の娘なんだろう。
ニコを妹に返した後に泣いてしまったのも、娘だったからだろう。
平山はカメラが好きなので、カメラメーカーのニコンから名前をつけたんじゃないか?
キレイな木漏れ日写真が数百枚あろうが、実の娘の一枚の写真より価値があるとは思えるはずもない。
近所にあった建物がなくなって更地になっていた場所で、平山は知り合いの老人に何が建っていたか聞かれたが、思い出せなかった。
これにより平山は、いつも身近にあったが、ちゃんと見ようとしていなかった自分の浅はかさに気付かされたんじゃないか?
ニコは、夢に見るくらい、いつも平山の心の中に実は身近に存在していたんだろう。
最終的に、ニコに会って自分にとって大事なことを思い出した平山は、起きてから家の中の決まったルーティンの猫写がないまま家を出た。
鍵を閉める描写こそなかったが、鍵を閉めない猫写も、コーヒーを買う猫写もなく、車の中で聞くカセットをしっかり選んでいた。
平山は過去の自分が決めたルーティンを捨て、新しい日常を始めた。
新しい自分になり始めた平山は、その門出を祝うように、自分のお気に入りの曲を聞き、また新しい人生が始まることに嬉しくなって泣いたんじゃないか?
もしかしたら、いつか、自分がニコの父親であることを明かし、ニコとちゃんと向き合い、一緒に海に行くことなどを決めたのかもしれない。
これからは、ニコを心の真ん中に置きながら、新しいルーティンを構築していこう、と、真のパーフェクトデイズを目指し、始動した所で物語が終わる、ということなんだろう。
ルーティンは、行為に重きを置くのではなく、心のあり方の方が重要である、と言っているようにも感じる。
これはおとぎ話、寓話であると考えると、平山が人格に沿わないヒステリックな怒り方をするのも納得は出来る。
寓話なので、リアルな心の流れを外れても、誇張して猫写したかったんじゃないか?
自分のルーティンに固執し、それが壊れることが嫌でしょうがなかった男として。
怒った具体的な理由はなく、そう見せたかったから、という外部的な理由しかないんじゃないか?
もし妄想も混じっていて、あのヒステリックな平山が本当の姿で、それ以外の振る舞いは平山によって美化されていた、などと考えると、もう訳がわからなくなる。
大部分なのか、部分的に妄想なのか、などと考え出すともう闇の中だ。
無口の一貫性のなさが、説明がつく可能性もなくはない。
考えるのが好きな人は時間をかけて楽しめるかもしれないが。
なので、この作品は過去に大きな闇を抱えた数奇な男の、再生を描いたおとぎ話で、自分の様に途中から、仙人的清掃員のリアルドキュメント風ドラマを望んでいた人にとっては、後半に行くに連れてボヤけ、よく分からなくなっていく。
ラストのポジティブさだけは理解できたとしても。
では、平山はなぜ娘を手放さなければならなかったのか、妻はどこにいるのか?などは分からない。
仮に平山が犯罪者だったと言われても、犯罪を犯す人物には見えず、更生した、とも考えづらい。
それなら、無口さをもっと徹底して、感情的豊かな優しい雰囲気も邪魔だったと思う。
しかし、おとぎ話だとしたら、あまり深く考える必要はないかもしれない。
いずれにせよ、この作品は、これはこれでありだろうが、分かりづらい。
平山の闇もはっきり明かされないので、平山の前向きさには胸を打たれるが、教訓になるような、ならないような話ではある。
自分としてはやはり、全編を通して一貫性のある、リアルな振る舞いの主人公像のドラマを見たかった。
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