映画「首(2023)」が”物足りない”理由と考察、その感想

④物足りない☆2

監督-北野武 2023年 131分 日本

脚本-北野武

出演-ビートたけし、加瀬亮、木村祐一、西島秀俊、中村獅童、遠藤憲一、小林薫、寺島進、ホーキング青山、大森南朋、浅野忠信、岸部一徳、大竹まこと、堀部圭亮、勝村政信、桐谷健太、柴田理恵、六平直政、荒川良々、副島淳、寛一郎、アマレス兄弟、劇団ひとり、他

映画「首」のあらすじ

名だたる大名が群雄割拠する戦国時代、天下統一を掲げる織田信長は、家臣の荒木村重に謀反を起こされる。

信長は会議で、羽柴秀吉や徳川家康、明智光秀などの家臣たち全員に、自分の跡目を引き継ぐチャンスがあることを示唆しつつ、家臣たちに村重を捕まえることを命じる。

そんな中、村重は元忍者で芸人の曽呂利新左衛門に偶然捉えられ、茶人の千利休を通じて明智光秀の元に匿われた。

また、誰に跡目を継がせるか、という信長の胸中が書かれた手紙を、曽呂利を使って光源坊から手に入れた秀吉はその内容にショックを受け、その手紙を光秀に見せ、信長への謀反をけしかける。

光秀もまた、村重の助言で、徳川家康が村重を匿っているという偽情報を信長に流し、信長は家康の暗殺を目論む。

しかし、秀吉は、暗殺が失敗して光秀と信長の関係が悪化することを狙って、その計画を家康に暴露してしまう。

信長の跡目を狙って、家臣たちはそれぞれの思惑で暗躍していく。

一方、百姓の茂助は、一旗揚げるために秀吉軍に兵隊として飛び入り参加し、彼もまた大将の首を求めて争いに身を投じるのであった。

“物足りない☆2″理由と考察、その感想

たけし流戦国アクションドラマ

北野武監督の、本能寺の変をたけし流に描いた、ブラックユーモアを交えた戦国アクション時代劇。

史実を元にしたストーリーで、残酷な描写を含むアクションもたくさんあり、謀略を巡らす人間ドラマや、コメディ要素、同性愛も描かれ、実に盛り沢山な男臭い時代劇になっている。

所々見ごたえのある描写や、たけしらしい発想のエッセンスなども散りばめられていて興味深いが、見終えた感想としては、もう終わりか?という感じで物足りなかった。

なぜ物足りなかったのか、考えていきたい。

黒幕の羽柴秀吉が大根演技である

出てくる登場人物がほぼ全員自分のことしか考えていない連中で、誰かに感情移入しづらいのは当然だが、騙し騙されというその謀略のドラマにも深さを感じなかった。

それは、たくさんの登場人物の個々のの存在感や演技によるところはあるが、特にストーリーの軸である羽柴秀吉と、曽呂利新左衛門の存在感が物足りなかったからだと思う。

一番は、全ての黒幕である羽柴秀吉を演じるたけしが致命的に大根であることだ。

表向きでは相手を心配するふりをしながら、自分の都合の良いように動かす腹黒さや怖い感じなどの演技描写も特になく、こいつが一番の黒幕か、という迫力や凄みもない。

そもそも側近の黒田官兵衛や弟の羽柴秀長に言われるがままに動いている感じで軽く、天下を獲りたい野心家にも見えない。

抜けている適当な人間に見えるが、わざとそうしている深みもなく、成り行き任せのアホな殿様に見えた。

なので、最後に明智光秀の首を蹴った後、側近に首を落とされる、くらいのオチがあっても良かった。

それをしないということは、監督は自分の演技がいかに足りていないのか全く把握していない、むしろ出来ていると思っている、という表れである。

織田信長の本心を知って悔しがる演技も素人演技で、全く悔しがっているようにも見えない。

怒りで火鉢に手を突っ込むというコミカルな描写すらあざとく、一体何がしたかったんだろう。

これが渥美清なら、熱がるという演技自体で面白くできるだろうが、そんな技術もないのに、わざとらしくて盛り下がるだけだ。

この作品ではそんな感じでたけし自体がコミカルなシーンを作ろうとしているやり取りがいくつもあるが、どれも切れが悪く、浮いていて、この作品における羽柴秀吉像をより分かりづらいものにしている。

秀吉が家康に天下を取らせてほしいと頭を下げる演技もあざといし、その後に側近に、なぜ俺が頭を下げなきゃいけないんだと怒る喧嘩コントも本当に怒っているようにも見えず、ゆるい。

アドリブでたけしが勝手に続けて、それを使ったのかもしれないが、側近の2人も戸惑っているような感じで、それが奏功している訳でもなく、特に残しておくほどのものではない。

曽呂利新左衛門が博打でイカサマをしていたのがバレた時、秀吉は刀で曽呂利の首を落とそうと凄み、結局は冗談だ、と斬るのをやめて笑うが、ここでも秀吉の深い人間像などは特に感じなかった。

場が静まり返った後、ひとボケ入れるわけでもなく、何もせず刀から手を離すだけというのは、脅したは良いけどどうしたら良いか分からないやつに見えるし、怯える様を見て優越感に浸るしょうもないやつにも見える。

怯えて下を向く曽呂利に自分の臭い草履の匂いを嗅がせるとか、分からないけど、たけしなりにボケるチャンスだったんじゃないか?

冗談だ、ハハッと笑う感じもセリフになっていてあざといし、弱々しい。

なのでこのシーンもとくにコミカルでもなく、ただ自分の権力を見せつけただけのしょうもない人間像だ。

もしこれが、「その男、凶暴につき」の頃の脂が乗ったたけしが演じていたら、何を考えているのか分からないぶっ飛んだ殿様を表現できていたかもしれないが、そんなマンパワーもない。

ちなみにアウトレイジの時のたけしもそうだが、たけしが声を張り上げて怒っている感じは、特に深みもなく薄い。

この作品でも、大声で怒るシーンはいくつかあるが、どれも本当に怒っているようには見えない。

きっと本人は、出来ていると思っているんだろうが、確かに表面的な迫力はあっても、中身が感じられない。

むしろ、たけしの場合は、大声を上げないでボソボソ怒っている方がよほど怖いので、そっちの方が良いし、そんな表面的な怒り方を武器にしないで欲しい。

というか武器になっていないが。

ラストシーンで秀吉が明智光秀の首を蹴るシーンも、それまでに秀吉が天下を穫ることに執着している人物像が表現出来ていれば成立しただろうが、そうではないので、唐突な感じがある。

「俺はな、明智が死んだことさえ分かれば、首なんてどうだって良いんだ」というセリフの前半部は置きに行っていて素人っぽいし、後半部は力を込める言い方にやはり深みがない。

これならまだ静かにさらっと言った方がまだ深みは出ただろう。

それに、首をいっぺんに2つくらい持って来い、と家来にけしかけていたのに、結局はどうだっていい、と突き放す振る舞いは一貫性もない。

それなら、黒田官兵衛や秀長が首を次から次にチェックしているのをイライラしながら後ろで見ていて、業を煮やした秀吉が、どうだっていい、と割って入って首を蹴るならまだ分かる。

そんなこんなで、この作品の秀吉は、ベースが素人演技で深みがなく、側近に動かされていて野心家感や鋭さもなく、どんな人間か分からない。

一連の全ての事件の黒幕としては大分物足りない。

上記でも触れた通り、もしこのたけしが、脂の乗った全盛期の頃のたけしであれば、殺す、腹を切れと言う冗談も味になるし、側近に動かされている感じすら可愛げになり、実は一番したたかだったというのも、全てつじつまが合う気がする。

それだけ当時のたけしはマンパワー垂れ流しで、迫力や可愛げ、知的さなど、様々な人格が混ざった、演技を超えた魅力が宿っていた存在だった。

だからそれが表現できないのであれば、たけし自身が無理してやるのではなく、オーディションで出来そうな人を探して作るべきだった。

観客目線の曽呂利新左衛門の物足りなさ

このストーリーの黒幕が秀吉なら、曽呂利新左衛門は観客目線の主人公と言っても過言ではない。

この作品の登場人物の中で唯一庶民感覚のあるまともな人物とも言え、ストーリー進行に大きく関わる大事な役である。

この曽呂利新左衛門は、特に何か振る舞いにあざとさなどはないが、全て優等生の演技で、演技を超えて訴えかけてくる魅力は特に感じなかった。

悪く言ってしまえば、全て置きに行っている演技で、リアルな強い感情が見えることもない。

もっと木村の味である、本当に怒った時のような良い意味の荒々しさがふんだんに現れていれば、大分見ごたえのある役になっただろうと思う。

鬱屈した感じ、イラついた感じも特になく、普通の人という感じだった。

準主役なので、もっと好きになれるくらいの魅力が欲しかった。

普段自然に喋る感じではなく、セリフになっているからか、関西弁もあまり板についてない感じすらした。

また、曽呂利が秀吉の前で小話を披露する時など、その小話で本当にこっちも笑わして欲しかったが、特に笑うほどではなかった。

秀吉と秀長は笑っていたけど、それもまた目の前で小話を聞いたから、特に面白くなくても笑うという、機械的な演技である。

本当に笑ってしまった、という演技ではない。

曽呂利が単純に落語が下手で、噺の中の天魔王や閻魔様の演技を流していて迫力がない、というのはあるが、その空間を実際に支配して笑わすというリアルさでは全くない。

信長を笑わした時は、ガッツリとした落語ではなく、説明口調なので冗長ではなくまだ笑いやすいが、呼吸を置いてゆっくりと言うのではなく、一息で後半にかけてまくしたてるくらいのプロ感が欲しかった。

肝心な「言わせる」というセリフの声が小さく、笑わせる気があるのか分からない。

信長はしっかり笑っていたけど、芸人としてもっと光るものが見たかった。

木村祐一は好きだが、この役の演じ方は少し落ち着きすぎているのかもしれない。

だから、小籔千豊なんか良かったんじゃないかと思う。

木村より人間味がある、というと失礼だが、若さも相まって可愛げがあり、言葉に迫力もあるし、元忍者っぽいし、子分を連れている感じも似合っているし、落語も悪くなさそうだ。

もしくは、少し若い頃の浜田雅功なんかも良いんじゃないかと思う。

ストーリーテラーとして、庶民的で存在感もあり、感情豊かで、見ていて応援できる。

特殊メイクで若返らせて、現在の浜田でも悪くないかもしれない。

なので秀吉だけでなく、曽呂利にももっと存在感があれば、このドラマは全体として引き締まったものになったんじゃないかと思う。

興味深いが、重厚感に欠ける織田信長

常識破りで破天荒、同性愛者でもある織田信長を加瀬亮が演じているが、もっと重厚感が欲しかった。

一般的な武士のイメージとはかけ離れた、こんな時代にこんな常識破りの人がいたのか、という、信長に対する興味をそそられる人物描写自体は面白い。

美少年と黒人の大男をそばに置き、西洋チックな毒々しい色の和服をまとい、自分に反抗する大名にはみんなの前でむごい嫌がらせを笑いながらやってのける。

黒人の彌助の膝に頭をもたれかけて寝転び、リラックスしているフリをしながら、家康が毒の入った鯛を食べるかどうか見ている、など漫画みたいで面白い。

もちろん誇張している所はあっても、破天荒な部分に関しては、近からずも遠からず、という気はしてしまう。

そんな信長を加瀬亮が振り切った演技で演じていて、それなりに存在感はあり、彼なりに頑張っていたとは思う。

しかし、あまりにエキセントリックで非道な面が目立ちすぎて、とてもじゃないがそうそうたる大名達が甘んじて従うとは思えない

名刺代わりにぶっ飛んだシーンを見せているとしても、その印象を補うだけの有能さや重厚感は感じない。

もし実際にあんな感じが日常だったら、早々に大名達は信長を殺すことを話し合っていると思う。

もしくは利用するだけ利用しようとしか思われていない、相手にしてもしょうがないくらいの見切られ方をすると思う。

なので、行動はエキセントリックでも、謀反をギリギリさせないくらいの説得力がある重厚感が欲しかった

明智光秀が信長に意見し、他の大名達の前で殴られ、はずかしめを受けていたが、秀吉に対しては、愛がゆえ、自分を可愛がっている裏返しだ、などと言っていた。

しかし、信長は見せしめもかねて、自分の快楽を満たす、いじめを楽しんでいるのは明らかなので、光秀はアホなのかと思った。

もしかしたらお互い同性愛者だから、信長は自分のことを好きだからきつくあたっている、と光秀が思っているならまだ分かるが、部下として可愛がっていると受け取るのはあまりに盲目的だ。

秀吉は序盤で、自分は根が百姓なので、村重と信長様の仲がさっぱり分かりません、と言っていたが、二人の仲というか、信長がどう考えても9割方狂っているので、意味不明なセリフだった。

もし秀吉が村重と同じことをしたら、似たような酷いことをされていたんじゃないのか?

村重にはして秀吉や他の大名には一切しない、ということが提示されていたら、特別な感情を村重に抱いているのはわかるが、そうでもない。

村重と光秀以外に信長に反論している大名が全くいないので、検証しようもない。

表向きは従っていても裏で自分に反旗を翻した、と信長が踏んだ家康に対しては、ダイレクトに毒殺しようとしているし、反抗するやつを徹底的に叩くというのは一貫している。

村重だから、という訳ではない。

もしかして、村重も光秀も、信長に殴られたくてわざと反論していた、信長はそれを分かって遊んでやっていた、という常軌を逸した色恋沙汰だったらもう訳が分からないが。

仮にそうだとしても、この二人以外が普通に反論しても酷いことはされただろう。

なので、序盤から、このエキセントリックな信長に対する秀吉の反応もおかしく、光秀が洗脳されるほどの魅力も信長になく、他の大名達と信長の関係も成立しているようには見えない。

もし、この信長に重厚感があれば、信長のおかしな振る舞いを差し引いても、ついつい従ってしまう、という関係は描けたんじゃないかと思う

出来れば、トレーニング・デイのデンゼル・ワシントンくらい、悪かどうか判別しにくい重厚感が欲しかった。

例えば、三船敏郎だったら、成立していたんじゃないか?

ぶっ飛んでいても、懐が深く、頼りになる感じもあるので、簡単に見切ることも出来ない。

それなら、あの手紙で信長への見方が一変し、大名達の態度が180度変わる、という怒涛の展開が面白く描けていたんじゃないかと思う。

この信長は、最初からおかしい方に振り切れているから、フリとしては弱い。

信長に見放されたことを知った秀吉が悔しがるたけしの演技が大根だと言ったが、そりゃあんな上司に見放されたところで、別に悔しくもないのは、ある意味リアルであるとは言える。

信長役が三船だったら、本当にリアルな悔しさが込み上げてきていたかもしれない。

それにして大根すぎるので、言い訳になってしまうが。

信長が本能寺で最期を迎える時も、森蘭丸を介錯した後、彌助に首をはねられたのは滑稽で良かったが、そりゃ裏切られるよなと言う感じなので、あまり落差もなかった。

命を粗末にしてるやつはやっぱりこんな雑な死に方するのか、くらいの感じだった。

なので、加瀬亮は頑張っていたけど、見ているこっちが騙されるほどの重厚さが溢れていたら、面白くなっただろうと思う。

織田信長という人物について考えさせられる良いきっかけにはなったが。

アクの強い登場人物、家康や忍者、秀吉の側近、村重

たぬきと呼ばれる徳川家康は、毒入りの鯛の塩焼きを食べるふりしておわんに隠したり、影武者が次から次へと湧いてくる描写などは面白い。

美人でない女性が好きだと言われている家康が、若いきれいな女性には目もくれず、その女性たちを連れてきた、化粧もしてないおばちゃんを選ぶ、という描写も良い。

表向き血なまぐささと無縁の茶人の千利休は、名だたる大名達と交流があり、世を動かす影のフィクサー的な立ち位置で、腹黒さも垣間見える感じが興味深い。

曽呂利の先輩忍者、般若の佐兵衛は迫力があって格好良い。

佐兵衛は関西弁が板についていないので、そのまま標準語のまま喋ったほうが味があって良いと思った。

佐兵衛が仕える光源坊は、超能力を持っているのか、奇妙な身体つきと巫女にしゃべらせる感じが不気味で気持ち悪い雰囲気があって良かった。

これは、障害を持っているホーキング青山が演じているらしく、この起用法は大胆なたけしならではで偉いと思う。

日本人はなぜか障害を持っている人を遠ざける傾向があり、テレビやドラマ、映画ではほとんど見かけない。

アメリカでは小人症の俳優はたくさんいるのに、日本では皆無だ。

以前よりマシになっているとはいえ、この作品のように、異形の人物としてでも、本人が了承するならどんどん起用すべきだ。

身体つきが健常者と違うことは個性であり、それを武器として稀有な俳優として活躍することは、むしろ格好良いことだ。

身体つきだけではなく、内面に存在感があるなら、普通に俳優として、当たり前のように出演する世界でなくてはいけない。

なので、光源坊にホーキング青山を起用したことは、本当は特に普通のことでなくてはいけないが、他の日本人監督はまずやらなそうなので、そういう意味でたけしは偉い。

秀吉の側近、黒田官兵衛は忠実な側近という感じで悪くないが、秀長はあざとくて少し邪魔に感じた。

特に、信長を倒した後、宇喜多たちに秀長が、思ってもないことを言って取り繕い、それをすぐ裏で聞いている秀吉と曽呂利が笑いをこらえるシーンは、あざといコントを見ているようで非常に冷めた。

秀長がつく嘘が自然に嘘っぽくなってしまい、本人も焦っているリアルな感じなら分かるが、わざとらしく困っているコント演技で、それを曽呂利と笑う秀吉も嘘くさかった。

遠藤憲一が演じる村重は、光秀に固執する感じがコミカルで良い。

首というテーマに深く関わる光秀と茂助の物足りなさ

自分が成り上がるための首争奪戦で、名高い戦国大名の首を手に入れたのは、登場人物の中で一番身分が低いと思われる茂助という皮肉。

さらにその茂助も殺され、対照的な二人、光秀と茂助の首が同列に扱われ、秀吉が蹴ったのは、よりによって光秀の方だった、という面白い展開にも関わらず、それがガツンと表現できていない。

西島秀俊が演じる明智光秀は、相変わらず、役が変わってもいつもの西島秀俊で、良い意味でも悪い意味でも安定感がすごい。

犯人にされる一般人、シェフ、ゲイの弁護士、舞台演出家、役名が変わっているだけで全く同じ中身だ。

ここまで一個の顔しか持っていない俳優も珍しい。

かといって特にあざとい訳でもないが、特に目を見張るリアルな感情が見える訳でもない。

ある一定の存在感は担保されているが、それを超えて心に訴えかけてくる演技を見たことは一度もない。

村重は光秀にすがるしょうもない感じや弱さ、同性愛者の感じもそれなりにリアルに伝わってくるが、光秀はどんな人間か分からない。

結局は村重を捨てるが、元々村重を好きだったかどうか、そもそも天下を取りたかったかどうかも分からない。

信長の手紙を読んで怒っている感じも、殺意を抱いている強い怒りにも見えず、物足りない。

最期は、茂助の前で、首が欲しいならくれてやる、と自ら首を切って自害するのは潔いが、特に格好良さや粋さも感じなかった。

「下郎、俺の首が欲しいか」と茂助にせまるシーンも、言い方に最後の雄叫びのような、怒りやら悔しさが混じったような、迫力のある深さはなかった。

このセリフに深みがあり、茂助を本当に怖がらせるくらいの迫力があれば、欲しけりゃくれてやる、というセリフがギャップになって面白いが、そんな起伏はなく、平坦である。

そして、もしこれまでに光秀を魅力ある人間に描けていれば、この自害に憐れみも感じたし、光秀の死はショックを受けたかもしれない。

感情移入した人物が死ぬのを見るのはキツイし、そうなっていれば、そんな大事な光秀の首を最後に秀吉が雑に蹴る、というハシゴ外しも面白くなったと思う。

こっちが思っていることなんて平気で壊す感じがたけしらしくて良いと思うが、そうはなっていない。

明智光秀だけは他の登場人物と違って他人の命を粗末にせず、真面目で情に厚く、人間らしい、という訳でもない。

村重も殺したし、その前には、憂さ晴らしで鉄砲で片っ端から人を殺す、という残忍な面も持ち合わせている。

信長に対して、命をもて遊ぶとは、と怒っていたくせに、光秀も似たようなものだ。

西島の演じ方は、平たく言ってしまえば、特にこれといった信念もない、鈍感なやさ男、という感じで、どちらかというと良い人寄りだが、上述した通り特に良い人でもない。

うわべの正義感をたまに見せるだけの、信長の犬である。

せめて光秀だけ良い人にしてしまえば西島らしいし、こっちも多少なりとも好きになれて、その首に価値が出たかもしれない。

なので、首というテーマにも重要に関わる明智光秀像にも、もっと存在感が欲しかった。

そして、百姓から成り上がるために秀吉軍に参加し、光秀の首を穫ることに成功した茂助は、少し頭が弱く、頼りない人物像だが、ずっとわざとらしく、非常に邪魔だった。

本当に頭が弱いのではなく、頭が弱いフリをしているようにしか見えないので、ずっとリアルの手前で止まっていて、ナチュラルな人間味も感じられないし、全く良いスパイスになり得ていない。

中身が入れ替わり、見た目は大人だが中身は子供である、という設定のドラマで、大人が子供を無理矢理演じている時の違和感に近い。

中村獅童ではなく、芸人のカラテカの矢部太郎なんか良かったんじゃないか?

俳優が演じても真似できない線の細さ、頼りなさが出ているし。

光秀に、俺の首が欲しいか、と言われ、侍大将になりたいんじゃあ、と言い返すが、作ったセリフになってしまっていて、光秀の最期の熱い会話としては物足りない。

光秀も迫力がないのでどっちもどっちだが。

見やすい時代劇だが、頭でっかち、もっと出来るはず

自分は時代劇は身近ではなく、苦手意識があり、特に歴史が絡んだものなどに興味もなく、つまらない印象を持ってしまっているが、この作品は見やすく、まだ楽しめたほうだ。

武士同士が冗長に間合いを図って時間をかけて戦い、あまり血も出ない感じで切っていったり、アクションとしても今ひとつなイメージがある。

座頭市は除いて。

首は、そんなお決まりなどお構いなしにいきなり首が飛んだり、アクションにスピード感もあり、グズグズの合戦シーンも少なくて良い。

侍言葉は聞きづらいが、現代のしゃべり方なので、非常に聞きやすい。

そして、武士には高貴なイメージがあるが、この作品の登場人物はみな自分のことしか考えておらず、隙あらば相手を殺そうとするし、人の命を重んじてもおらず、武士の世界にあったとされる男色や同性愛なども隠すことなく描き、その時代を美化せず、さらけ出すように描いているのが好感を持てる。

もちろん誇張している部分もあるだろうが、刀を持っている人間が力を持っているというのは、ろくな時代でないことは確かだ。

後の江戸文化自体に目を見張る物があったとしても。

信長の残虐なエキセントリックさや、信長と蘭丸、彌助との関係など、創作は入っていても、こんな過激な内容の歴史映画を、有名俳優たちを使って普通に作れてしまう監督は、間違いなく今の日本ではたけしを除いて他にいないだろう。

上述した通り光源坊の俳優の起用法も良い。

しかし、初期のたけし映画と比べると、一本通った筋のような鋭さが見えず、ごちゃごちゃした作品ではある。

黒幕の秀吉の存在感のなさについては上述した通りだが、それ以外のシーンにおいても、締まりが無いシーンが多く、昔ほど1シーンごとのこだわりは感じられない。

主に演技面において、昔たけしがやっていた、あざとくなってしまうならそれを回避してセリフを変える、もしくはその俳優からセリフを全部取ってしまう、などという作業は特に行われていない印象を受ける。

あざとい役者もそうでない役者も、ひっくるめてうまく使い、味として映像に昇華してしまう、という技は見受けられない。

自分が演じる秀吉の演技を修正しない時点で、もうそういった見る目というものが失われているのかもしれない。

自身に関しては特によく分からない、のかもしれないが。

たけし自体の演技に関しては、HANA-BIの頃から怪しかった。

もし自分が昔のたけしであれば、秀吉役のたけしからは相当セリフを奪うだろう。

ほとんど置物のような使い方になるかもしれない。

なので、たけし流のアクション感やその時代の解釈、信長や大名達の人物解釈などの発想の面白さは光るものがあるが、肝心なドラマ部分がイマイチなので、全体としてまとまりがない。

ちなみに音楽に関しては、ありきたりで全く耳に残らず、ごく普通である。

ドラマが良くないのに、良い音楽をつけても恥ずかしくなるだけなので、それはそれで良いだろう。

監督の年齢を考えれば、老体に鞭打って頑張った方である、とは言える。

腐っても鯛、というと失礼だが、他の日本人監督にパワーがなさすぎる、というのもある。

ただ、クリント・イーストウッドを考えれば、たけしももっと出来るはずだとは思う。

本職ではないがゆえに、色々な部分にほころびが今出てきているのかどうかは分からないが、応援はしている。

たけしの映画は作り方の即興性に味があり、自分で書いた小説を元にして、あらかじめセリフを決めて作る、というこういった王道の映画の作り方は向いていないんじゃないか

あらかじめセリフを決めているから、それに固執して、あざとい役者がいても平気でセリフをカットしたり、付け足したりなどが出来ず、気づいたらキレのないシーンで膨れ上がってしまう。

史実を元にして、これだけ複雑なドラマを全部即興でセリフやシーンを作っていく、というのは至難の業だから、そもそも大作自体向いていないのかもしれない。

普通のつまらない監督になってどうするんだ、とも思うので、至難の業でもやって欲しいが。

それが出来ないのであれば、もっと気楽に、初期の監督作品の様に、たけしの即興性が生かされる、シンプルだが深く、味のある作品を作って欲しい。

この作品は、文字だけで読んだらきっと面白く感じるのかもしれないが、実際には表現できていない、頭でっかちな作品、とも言える。

本能寺の変にまるで興味がなかった自分にとっては、信長や本能寺の変に興味を持つきっかけを与えてくれたので、それは良しとしたい。

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