君たちはどう生きるか 英題:The Boy and the Heron
監督-宮崎駿 2023年 124分 日本
脚本-宮崎駿
声の出演-山時聡真、木村拓哉、木村佳乃、菅田将暉、あいみょん、柴咲コウ、火野正平、大竹しのぶ、竹下景子、風吹ジュン、阿川佐和子、国村隼、滝沢カレン、小林薫、他
映画「君たちはどう生きるか」のあらすじ
太平洋戦時中の日本、小学生の眞人は、火事で母親のヒサコを亡くしてしまう。
眞人は母方の実家に疎開し、工場を経営する父親の再婚相手、ヒサコの妹の夏子が新たな母親として、眞人の身の回りの世話をするが、眞人は夏子を母親として認めることは出来なかった。
都会から来た眞人は学校生活に馴染めず、同級生からイジメを受ける。
その帰り道に、何を思ったか眞人は自らの頭を石で激しく打ちつけ、流血してしまう。
しばらく学校を休むことになった眞人の前に、人間の言葉をしゃべるアオサギが現れ、母親のヒサコは死んでいない、と眞人を違う世界に誘おうとする。
そんな時、子供を身ごもっていた夏子が行方不明になり、気の狂った大伯父が住んでいた、とされる朽ち果てた屋敷に眞人が訪れると、そこにはアオサギが眞人を待っていたのだった。
“つまらない☆1″理由と考察、その感想
宮崎駿復帰作、アカデミー長編アニメ賞受賞作品
アカデミー長編アニメ賞を受賞した本作品。
久しぶりの宮崎駿監督の長編アニメということで、少し楽しみにしていた。
結論から言うと、すごくつまらなかった。
良い評判が特に耳に入ってこないので、うすうす怪しい感じはしていたが、予想以上にイマイチだった。
始まって1時間、ほぼこれといって強く惹き込まれる描写もなく、1時間が過ぎてようやく眞人が異世界に迷い込んだが、キリコとのやり取りもよく分からず冗長で、そこら辺で完全に自分的に興味が失われた。
1時間我慢した、というと失礼だが、ようやくこれから異世界で何かが始まる、という望みも叶わず、疲れてしまった。
残り30分くらいになってヒミという女性キャラクターと眞人が行動を共にし始め、意味は分からないながらも、ようやく作品にエネルギーが出てきた感があったが、大伯父もひっくるめた世界観が理解できないまま、気づいたら終わっていた。
宮崎駿的な、躍動的な人間描写や毒々しくも味がある作画、独特なアクションなど、瞬間的に目を引かれるシーンは所々にあっても、強く感動させられ心に残るシーンは一つもなかった。
今まで見た宮崎駿監督作品の中で、間違いなく一番つまらなかった。
なぜつまならかったのか、考えていきたい。
難解で惹きつけられないストーリー
この作品は、今までの宮崎作品の中で、トップクラスに意味不明で難解、かといってその中から真実を見出して感動出来る、という訳でもない。
ハウルの動く城や、千と千尋の神隠し、崖の上のポニョだって、細かく考えれば意味不明な世界で、詳しく説明しろと言われたら、抽象的なことになってしまう。
しかし、それらの作品たちには、意味不明だけど主人公が変な世界で頑張っている感があり、実際に困難を乗り越えて成長していくドラマによって、主人公を応援したり、ハラハラもさせられた。
この作品は、千と千尋のような異世界成長物語でも、ハウルのように孤独で闇を抱えた魔法使いとの恋愛物語でもなく、ポニョのように人間になりたい魚と交流する友情アドベンチャーでもない。
眞人がまだ母と認められない夏子との心の距離を埋めていくこと、火事で亡くなった母との交流、疎開先で馴染めない眞人の心の成長、どれもがメインストーリーほどの濃さもなく、かといって合わさって補い合っているわけでもない。
どれも中途半端と言っても過言ではない。
眞人がなぜ頭を石で打ち付けたのか不明
眞人は疎開先の学校でケンカし、その後自らの頭を石で打ち付けるが、なぜなのか不明だった。
壮絶なイジメを毎日受け続けてやり返しも出来ず、嫌気が差したなら分かるが、もし一回だけのイジメで、しかも眞人から立ち向かって行っている、どちらかといえばケンカであり、さほどボロボロにもされていない。
その状態で石で頭を打ち付けるのは、訳が分からない。
眞人がこの行為に至るまでの描写がバッサリなく、浮いた描写になってしまっている。
眞人は、冒頭に母親が火事に巻き込まれたと分かった時、父親の制止を振り切って火事の現場に向かうことができる、行動力のある強い子供だ。
それが出来なくて後悔を抱えている、という方が普通なんじゃないか?
緊急時なのにわざわざ服を着替え直して出ていった意味はわからないが。
また、アオサギのおかしさにすぐに気づき、自分に接触しようとしてくる最初から、強い姿勢で対抗していたし、弓矢を自分で作って戦おうともしていた。
弓矢を作るためにタバコをくすねてお手伝いさんに賄賂を渡し、小学生が年配のお手伝いさんを手玉にとる、というしたたかさも見せている。
キリコがいくら止めても、アオサギが誘い込む不気味な異世界に、臆さず入っていく勇気もある。
父親が帰ってきた時は、廊下から身を伏せて音を立てずに部屋に入ったり、色々と気が回る。
父親の高級車で学校に乗り付けたら同級生に目をつけられる、ただでさえこの時代の田舎の学校に都会から来た子供がどんな目に合うか、眞人なら容易に想像がつくことだろう。
なので、イジメてくる奴がいることも想定済みだろうし、来たな、くらいのことだと思う。
そんな眞人が、ちょっとケンカしたくらいで、大きく傷が残るほど自傷行為に走る、というのはあまりに飛びすぎている。
これは一回だけでなく、毎日受けていた壮絶なイジメの一部分なのか?
その割に自分から向かっていく強さも持っているし、百歩譲って、眞人も予想がつかない用意周到なイジメを受けていたところで、どう闘うのか策を練り、今度会う時はいじめっ子達に何らかの対抗策を実行する子じゃないのか?
母親が亡くなったのにすぐにその妹と再婚する狂った父親、その父親の見栄のせいで学校で目立ってしまい、毎日激しくイジメられ、家には母に似ているが、母ではない女性が当たり前のようにいる。
誰にも相談できない理不尽な板挟みで、きっと説明しても誰も理解出来ないこの状況に怒りが爆発し、死んでしまえ、と思って自分の頭を石で打ち付けたのか?
確かに、普通の子供がこの境遇で毎日イジメを受けたら、こうなってもおかしくないかもしれないが、眞人は賢くしたたかで、行動力や誠実な面もあるので腑に落ちない。
この行為は、終盤で悪意の印だ、と自分で言っているから、自分をイジメた連中やこの状況を生み出した大人、父親や夏子、戦争をしている社会、ひいては、自分を残して逝ったヒサコに対する当てつけだったのかもしれない。
未必の故意であり、学校に行かなくて済む、父親と夏子に何らかのメッセージを与えられる、という何かしら影響が起こる可能性がよぎった怒りの抗議だ。
しかし、そこまで追い詰められていたんだ、という描写がなく、あのタイミングでやるのは不自然で、後は想像で埋めてくれ、と見ている者にゆだねるなら、それは中身がないことの体の良いすり替えだ。
学校で何があったのか、ということをもっと詳細に描く必要があり、もし初登校の帰り道にイジメられた、としたら全然足りない。
眞人は同級生に対してあくまでやられっぱなしである必要があり、立ち向かっていく描写も邪魔だ。
なぜか父親がすぐに妹と再婚した、という家庭事情もバレており、裕福さも合わせて、アニメには使えないほど口汚いことを同級生に言われたのか?
母親に対して、体を売る姉妹とか、娼婦というような類の悪口を言われたのか?
だとしても、それがたったの一回だけで眞人が石を頭にぶつける、とは思いづらい。
陰湿に何回も毎日、眞人の心を追い詰めるほどの、悪知恵に特化したとんでもないイジメっ子がいる、とかならまだ分かるが、特に描かれていない。
この行動はこの作品の重要なテーマに関わってくるので、もっと時間をかけても良いから、丁寧に分かるように描くべきだった。
存在感があるようでない、どんな人間か不明の大伯父
そして、異世界を牛耳る大伯父の存在がよりストーリーの意味不明さに拍車をかける。
大伯父がどんな人間で、何がしたいのか、最後までよく分からなかった。
下の世界を保つために積み木を積み続ける、それを眞人に継がせたい、それが夏子やヒミ、眞人と一体何の関係がある?
この世界が続けば、眞人が母親と一緒にずっと過ごせるからか?
そういう風に眞人を説得するならまだ分かるし、答えに困る眞人に対して、ヒミが元の世界に戻るよう眞人を説得し、眞人も腹をくくって受け入れる、とかなら感動もあったが、そんなやり取りもない。
後に別れる時に、ヒミは眞人の母親になるなんて素敵だ、みたいなことを言っているが、あくまで帰らざるを得なくなったからで、二人で主体的にたどり着いた選択肢ではない。
ワラワラは人間を作っているから、この世界が壊れたら新しい人間が現実世界で今後生まれなくなるから?
それは大問題だが、そんなやり取りは大伯父と眞人はしておらず、眞人は、自分には悪意があるから、という抽象的な理由で断っている。
戦争をしている日常に戻るのか?などと大伯父が眞人に問い、眞人は友達を作る、などと言っていたが、そういう問題か?
もし人間が生まれなくなるなら、大伯父はなんとしてでも後継者を見つけなくてはいけないが、大伯父は、この世界を守ることに特に執着も熱意もなく、もう疲れている感じで、インコ大王の暴走も必死で止めることもしなかった。
そもそも切られただけで世界の崩壊につながる積み木を、外に持ち出して来ている時点で自殺願望丸出しというか、誰かに壊してほしい、世界壊れろ、と思っていたんじゃないか?
そして各々自分の時代に帰っていくことになるが、ワラワラの問題は放ったらかしか?
ワラワラがいなくなっても魂の生まれ変わりがなくなるだけ?
それは大変なことなんじゃないのか?
別にこの世界が壊れても現実世界になんの影響もないなら、大伯父が眞人を後継者にしたい理由もよく分からない。
この世界が楽園のように魅力的で、ヒミも眞人も現実に戻りたくないくらい素敵な世界なら、大伯父の提案の根拠はまだ分かるが、鳥が牛耳っていて、あわよくば人間が食べられそうになる物騒で変な悪夢のような世界だ。
そんなひどい世界を作り続けてきて、美しい世界を作れと眞人に託そうとするのは、負債をそのまま押し付けていて、不誠実極まりない。
ヒミはこの世界では大伯父の血を引くから権力があり、もし現実がヒミを虐待するような世界であれば、ヒミが帰りたくないのはうなずけるが、それは不明だ。
また、この世界が竜宮城のような美しい世界で、大伯父が心奪われており、何としても守りたい、後継者になればヒミとも永遠に一緒にいれるぞ、と悪魔のようなささやきを行い、眞人を現実に戻さないようにする、とかならまだ分かる。
眞人の現実では戦争があり、ヒミは戻ったらいずれ死ぬ運命が待っている、だから二人共ここにいなさい、と心配するふりをして、本当は自分が作った世界を守りたいだけ、それを眞人に見抜かれ激昂し、大伯父は醜い本性をさらけ出す、とかなら面白かった。
そうなると、やはりワラワラのくだりはものすごく邪魔なので、バッサリない方が良い。
大伯父は本性を現した、もしくは帰りたがらない二人を追い出すために悪を演じた、いずれにせよ、大伯父は悪者になり、若者にとどめを刺されるという潔い散り際の方が格好良かったんじゃないか?
それでも自分に居場所を与えてくれた大伯父にヒミは感謝を示し、大伯父は散っていく、とかならまだ感動もある。
インコ大王の暴走を許し、世界が崩壊に向かうと、大伯父は、自分たちの時代へ戻れ、と言い、最後まで二人に優しかった。
死に際まで格好つけている感じで、大伯父は感情をさらけ出すことはしなかった。
それも含め、大伯父は語らずとも深みがあり、味がある、というわけではなく、最後までよく分からない人間だった。
この程度なら、がっつり登場する必要もなく、ヒミの口から成り行きが語られ、チラッと最後に歩いている姿が見えるくらいの方が深みがあって良かったんじゃないか?
終盤の大伯父の登場や眞人との対峙が、この良く言えば難解、悪く言えば中身のないストーリーをまとめあげる要素にもなり得ておらず、より訳がわからなくなった、という感じだ。
大伯父と眞人との会話を通して伝えたいメッセージがあったのかもしれないが、言葉足らずで、全体を通して頭でっかちな作品になってしまっている。
もっと時間をかけてもいいから、必要なドラマを丁寧に描く必要があったんじゃないかと思う。
これで何かを感じ取れ、というのは無理があり、特に感じることもない理解不能で抽象的な絵画を見せられ、これには深い意味があるんだ、と解説を聞かされているような、憂鬱な気分になる。
ハネケの作るような鋭さのある難解さでもない。
つまらない美術館に迷い込んでしまった感じというか、見た者は各々こういう意味があるんじゃないか、と言い合い、理解した気になって優越感に浸るんだろう。
自分も似たようなものだが、せっかく迷い込んでしまった以上、なぜつまらないのかを解明したい。
そういう類の芸術とは比較的逆のアプローチで、描く世界が非現実で突飛でも、そこに熱い人間象があり、見ている者を感動させてしまう、という従来宮崎駿がやってきた手法とは明らかに異なっている。
失踪する理由が弱い、かまってちゃんの夏子
夏子は、下の世界に行ったのは、眞人が自分を母親と認識してくれない、姉さんに申し訳無い、と感じたことが原因の一つであるようだが、失踪の理由としては弱い。
妊娠うつと言われても、それは眞人が引き起こしたことでもない。
眞人がまだ心を開いてくれない、自分が安心させてあげられてないからだ、と悩むのは分かるが。
むしろ、あの頃の思春期の子供が、亡くなった母親以外の女性を、すぐに母親として見れるという方が異常だ。
何年も一緒に過ごしてもケンカばかり、眞人は夏子を憎んでいる感じすらある、くらいのドラマがあれば、眞人が夏子を探しに行く時に感動が生まれただろう。
そうではなく、会ったばかりでまだ懐いていない、という初期段階なので、夏子をお母さんと呼ぶシーンも特に感動もない。
むしろ呼ぶのはまだ早い。
夏子母さん、とも呼んでいたし、それはむしろ気を使ってお母さんと呼んであげている感があるので、心から母さんと思って呼んだ訳ではないだろう。
思ってないのにそう呼ぶことの意味がどれだけあるのだろう。
夏子は、眞人が自分と暮らし始めてから、楽しそうにせず、頭を大怪我し、時々行方不明になるという情緒不安定さも現れ、その原因は自分が姉さんより劣っているから、自分が眞人に安心感を与えてあげられていないからだ、と思ったのかもしれない。
その夏子の悲しみ、苦悩、自責の念はよく分かるが、失踪するにはまだ早い。
夏子が眞人に心からぶつかっていった、という描写も特にない。
この状態での失踪は、すぐに自分に連れ子が懐くと思っている傲慢さや、報酬がすぐにもらえない不満の裏返しに見え、まるでかまってちゃんのようだ。
失踪するに至るには、何とか時間をかけて忍耐強く眞人にあの手この手でアプローチし、心を開こうと試みるも、全てことこどく失敗し、直接「母親づらするな」などと眞人から突き放される強烈な言葉をかけられた、とかなら分かる。
それなら、夏子に、あんたなんか大っ嫌い、と言われるのも腑に落ちる。
そういうドラマもないのに、懐かないから家出する、というのは、浅く感じてしまう。
それが妊娠していて、うつ状態になりやすいから、何かと物事を重く捉えがち、と言われても、優しく魅力的だった夏子が徐々に情緒不安定になっていく様子などが丁寧に描かれている訳でもないので、取ってつけたように感じてしまう。
そもそも夏子がどんな人間か、というのも十分に描かれていない。
声の演技の足りなさもあって、どちらかというと少しツンとした感じの女性にも感じてしまうので、さほど魅力は感じない。
大伯父が夏子を誘拐したわけでも、眞人がひどい仕打ちを夏子にしたわけでもなく、夏子は自分から何となくいなくなり、眞人にお母さんと、言わせて満足したのか帰ってきた。
なので、失踪に至るまでもう少し丁寧にドラマを作って欲しかった。
足りないヒミと眞人のドラマ
母親、ヒミとの交流も目を見張るドラマはない。
ヒミはハウルの動く城に出てくるカルシファーのように、火を操る能力を持つ、活発で強い人格の魅力的な女性だ。
この人が眞人の母親である、という設定自体はロマンチックで、心惹かれる。
しかし、登場シーンは遅くて少なく、眞人と心の交流をした、と言えるほど濃いドラマもない。
もっと早く登場し、眞人に色々教えて仲間になり、眞人は成長する、そして今度はヒミの命を救うために眞人が奮闘するが、実はヒミは実の母親だった、というドラマなら感動できただろう。
なぜか、下の世界で眞人に危険が及びそうになると、ヒミが自分を犠牲にしてボロボロになってでも守ってくれる、なんでだ、と眞人は思っていたが、実は死んだ母親だったから、と分かれば涙腺は崩壊しただろう。
そういう熱いドラマは特に描かれず、眞人は何となくヒミに助けられ、また何となくヒミを助ける、という感じでメリハリもない。
眞人は若かりし母と一緒に過ごせたのは幸せだろうが、ヒミはさらっと夏子の姉であることをバラし、眞人もそれに対して特に反応しておらず、物足りない。
ヒミが自分の世界に戻ることを眞人は拒否するが、それでもヒミは眞人の母になる、つまり将来火事で死ぬことを受け入れてでも眞人を生みたい、という意志は格好良い。
さわかやで竹を割ったような性格とでも言うべきか。
全編通して心が揺さぶられかけたのは、そのシーンくらいだった。
なので、ヒミというキャラクター自体は良いものの、うまく生かされておらず、もったいない。
監督は80歳を超えてなお、こんなにも魅力的なキャラクターを作れる、というのはすごいことではあるが、もっと出来たんじゃないか?
眞人の成長とはいったい何を指すのか?
上述した通り、眞人は決して弱々しい人格ではなく、状況判断能力も高く、よく出来た子供だと思う。
誰に弱音を吐く訳でもなく、自分の中で受け止めて処理しようとする強さがある。
なので、眞人は元々心が強い方なので、下の世界に行ってから、特に成長した節は感じられなかった。
「千と千尋の神隠し」の千尋のように、徐々に臆病な性格が、もまれて強く変わっていった訳でもない。
キリコと人間の魂の元であるワラワラの世話をし、老ペリカンと接して、生まれることすら出来ない命や理不尽な世界を目の当たりにして、自分は情けないと気づいたのか?
それはまるで一日職業体験のような勉強で、これで強くなった、というのは少し弱い。
アオサギやヒミを助けたのだって、成長したからではなく、いつもの眞人で、ヒミが自分の母親と知らなくても助ける性格だろう。
眞人が夏子のことをお母さんと呼んだことも、特に眞人の成長ではない。
すったもんだの闘いが夏子とあって、もう心ではお母さんと思っているが、素直になれない自分と向き合い、ようやくお母さんと声に出したなら成長だが、そうではない。
そんなにすぐにお母さんの代わりなど見つからないだろう。
眞人は正義感が強い子だから、夏子に懐いていようがいまいが、助けに行くはずで、それ自体が成長というわけでもない。
結果論としては、眞人の成長とは、上の世界では石で頭を打ち付け、複雑な現実と真っ向から闘うことを拒否したが、自分の思い通りの世界を創れるという大伯父からの提案を拒否し、現実と闘うことを誓った、ということだろう。
だからなぜそう思うに至ったかが描かれていない。
そもそも元々なぜ自傷行為をしたのか不明瞭なので、なるほど、ともならない。
友達を作る、とも言っていたが、眞人にとってアオサギが初めての友達で、友達の作り方を学んだことが成長か?
疎開したばっかりで友達などすぐに出来ないほうが普通だ。
眞人なら、その人格から、疎開前の学校でリーダー的な存在として慕われていてもおかしくない。
そして、アオサギには真っ向から闘い、その後に憎しみなどを超えて助ける、という、人間同士(アオサギは人間ではないが)の嘘のないぶつかり合いがあったから、アオサギも協力してくれた訳で、それをなぜ上の世界の人間に出来ないのかよく分からない。
アオサギの方がイジメてくる同級生よりもはるかに気持ち悪くて恐いだろう。
いや、人間の方が怖いのか?
若かりし母親と会えたことで、自分がどう生きるのか、考えさせられたことが成長になった?
確かにヒミと出会えたことが、一番眞人の琴線に触れた出来事かもしれない。
しかし、それは母親の人柄に触れただけで、眞人が自分の手で掴み取った成長ではない。
そして、一度は現実から逃げたが、やっぱり闘うことにした、という心変わりが、ヒミと接しているどの時点で眞人に起こったのかは、非常に分かりづらい。
眞人を生むために、非業の死を受け入れてまで、元の時代に戻ることを快く選択したヒミに心動かされたとしても、それは最後に別れる時に判明したことで、大伯父との会話時点ではまだ眞人は知らないはずだ。
なので、大伯父との誓いの前に、もっと早くヒミの意志を眞人に伝えて欲しかった。
そうであれば、自分の母親に比べて自分はなんて臆病なんだ、逃げている場合じゃない、と気持ちが変わる十分すぎる理由になっただろう。
ヒミは眞人を産むために帰る、いや帰らないでここに一緒にいればいい、いやそれじゃダメなんだ、とヒミと眞人が口論して、ヒミに強く怒られる、というような描写が中盤にあっても良かった。
なので、ヒミとの交流はこの作品の肝で、良いエネルギッシュさもあるので、もっと早く登場させ、ヒミとの話を長くすべきだった。
上述した通り、一時間を過ぎると退屈さが押し寄せてくるので、キリコとのワラワラなどのシーンはバッサリいらず、眞人が下の世界に行ってからすぐにヒミと出会って欲しかった。
キリコとワラワラ、ペリカンとの交流など、今思い返しても、非常にふんわりしている。
繰り返しになるが、ワラワラが全滅しても変わらずに人間は生まれてきて、生まれ変わりがなくなるだけ?
でも誰もその危機を声高に主張する人もいないので、別に何も問題ないんだろう。
それはそれでグズグズで、なおのことキリコとのシーンは、ワラワラごと丸々いらなかったんじゃないか?
ワラワラが集まってDNAを形作るという発想は面白いが。
人間は沢山の魂、人格から形成されていて、それが融合して一つの人間になっているとしたら、なんともロマンチックだ。
しかし、それがストーリーに強く関わってくる訳でもないので、なくても良いと思う。
素人ばかりの声優陣
ストーリーの意味不明さ、ドラマの足りなさもさることながら、声優陣にはほとんど魅力を感じず、声優の演技から作品に惹き込まれる、ということも全くなかった。
眞人はそれなりに、正義感のある青年感が声にあり、若さゆえの棒読み感が、物足りないと言えば物足りないが、リアルでもあるので、目をつぶりたい。
リアルな若さ、とっぽさを表現しつつ、もっと感情豊かに表現出来るプロを探すことは出来るだろうが。
パズーやアシタカのように、最初から強いよりも、精神的に不安定な青年を表現したかったから、こうなったのかもかもしれない。
それ以外では、眞人の父、夏子、アオサギ、老キリコ、若いキリコ、ヒミ、おばあさん連中、老ペリカン、大伯父ですら物足りない。
声自体に存在感がなく、誰でもできる演技、耳にあまり残らない素人演技ばかりだ。
インコ大王は悪くないけど普通で、わざわざ俳優から抜擢するほどではない。
大伯父は声自体に味はあるが、迫力がなく、重厚感は感じなかった。
最低限、異世界への案内役で眞人の相棒のアオサギ、母親のヒミは、プロの重厚感、存在感が必須だったが、残念ながらそれも叶わなかった。
アオサギは、俳優にしては上手いほうだろうが、その程度止まりで、それっぽいね、という枠を超えてこない。
ベテランのプロ声優何人かにやらしてみれば、もっと重厚感があり味があるアオサギはいくらでも出来るだろう。
いや、特にベテランじゃなくてもいけるはずだ。
実写の演技で、若手では菅田将暉より生感のある、リアルで強い演技を出来る日本人俳優を知らない。
置きに行かない、その場で作り物でない、生の感情を表に出せる珍しい俳優だと思う。
本当は普通のことだが、それが出来ない俳優だらけだ。
彼は歌声もそれなりに味があり、上手い下手を通り越して伝わってくるものがある。
しかし、さすがに声優までは出来ないんだ、と思わされた。
ヒミも若いから、感情表現が成熟していない、棒読みのリアルさを採用したのかもしれないが、上手くいっていない。
ヒミは、ラピュタのシータくらい、深みがある感情豊かな声の方が、よほど魅力的だったと思う。
リアルにこだわるから棒読み、というのは、なんでもかんでもそうすれば良い訳ではない。
物足りない、下手だな、なんだこりゃと思ってキャストを見てみたら、案の定俳優のオンパレードだった。
歌手の人もいたが。
いや、俳優だろうが声優だろうが歌手だろうが、良ければなんだって良い。
例えば、ラピュタのムスカは寺田農で、トトロのサツキとメイの父親は糸井重里で、もののけ姫の乙事主は森繁久彌、モロは美輪明宏で、千と千尋の釜じぃは菅原文太で、ジブリではないがファインディング・ニモのドリーは室井滋で、アナと雪の女王のオラフはピエール瀧で、などと、場合によっては声優を凌駕する存在感を発揮する俳優やタレントもいる。
だから俳優でももちろん構わないが、この作品の声はあまりに質が低すぎる。
このキャスティングは、「アフレコはプロの声優に任すべき」→「いや、声優だろうが俳優だろうが良ければ良い」という、固定観念を壊した柔軟な采配、声の質が最優先の、良い意味の独裁的な品質至上主義にはほど遠い。
昔はそれが成功していたのかもしれないが、この作品には見る影もない。
あえて声のプロを排除して、声優には出せない味を追求した、新たな価値観へのチャレンジ精神も感じない。
ただ下手なだけだ。
声の質の良し悪しにこだわっていない、それは単純に良し悪しを判断する感性が失われている、もしくは声の質を下げてまでも有名俳優を起用することで興行的な保険を作りたかったからか?
真相は、感性が失われているから判断できず、後者を事実上許してしまっている、ということだろう。
宮崎駿も、鈴木敏夫も、もう声の良し悪し自体を判断する目が失われている。
鈴木敏夫に元々それがあったのかは不明なので、宮崎駿が衰えた、と考えるのが自然だろう。
北野武もそうだけど、もう80歳近くなる、もしくは超えると、演技の良し悪しというものが分からなくなってしまうのか?
分からなくなっている、ということすら気づけていない、というのが一番の問題だろうと思う。
宮崎駿に関しては、相変わらず主要キャストの絵自体の演技は悪くないので、声の演技やドラマの良し悪しを判断する目は失われても、そこだけはかろうじて残っている、という感じか。
ハウルの動く城のハウルは木村拓哉が演じていたが、棒読みっぽい部分はあっても、ハウルという不思議な人格とマッチしていて、むしろ味になっていた方だと思う。
ちなみにソフィーの声はおばちゃんすぎて、非常に冷めたが。
今回は彼が眞人の父親を演じているが、明らかに物足りない。
一見良い父親だが、独善的で見栄っ張りな部分もあるから、それが逆にリアルで合っている、という訳でもない。
そういう人格のマイナス面を演じさせる必要があったとしても、デフォルトで下手に演じさせるのは筋違いで、それを演技とは言わない。
アオサギもヒミもそう、味うんぬんよりも、下手や物足りなさが最初に来てしまう。
一箇所や二箇所、あの部分があざとかった、足りなかったからもったいない、というレベルではない。
ほぼ全部の役がデフォルトで物足りなさすぎる。
せめて、もう自分で判断する能力がないなら、信頼できる自分より若いアニメ監督に、キャスティングを全て頼んでしまえば良かったと思う。
鈴木敏夫が興行的なキャスティングをねじ込もうとしてくるかもしれないが、それにもブレない目を持っている人でなければいけない。
興行的なことを度外視で質を担保するからこそ、逆に興行的にも大成功するはずだ、というシンプルな品質至上主義に立ち返るべきだ。
少なからず、昔の宮崎駿や相棒の高畑勲がやってきたことはそういうことだろう。
いつから声優を排除し、人気獲りに走るようになったのか?
ポイントで使うならまだしも、明らかにやり過ぎだ。
もしこの作品の主要キャストの声優が全てプロの声優陣だとしたら、また印象は変わったかもしれない。
ドラマの足りなさはあるから、それでも物足りない、ということにはなっていただろうが。
声優以外の俳優や歌手、タレント達も、オファーが来たから声優の仕事を受ける、ということがどれだけ危うい行為か、もう少し考えた方が良いと思う。
それが有名になった証、ステータス、本業にくっついてくる美味しい副業程度に考えていたら、とんでもなく恥ずかしい思いをするのは自分だろう。
そんなことは夢にも思っていないから受けているんだろうが、本業で失敗するならまだしも、それを生業にする人達の仕事を奪ってまで受けたあげく、大した成績も残さない、ということが何を意味するか。
でも日本人はどうせ誰も何も言わないから話題にはならない、そもそも判断する目を大衆は持ち得ていない、芸術には疎い、怒っている声優もいない、だから別に構わないってか?
声優も声優で、最近日の目を見るようになり、浮気などのスキャンダルを起こしたり、アイドル化したりで忙しく、特にそういうことにも関心はないのかな?
声優が舐められていると思ってしまうのは自分だけか?
まあ、そんなこんなも自分の知ったことじゃない。
とにもかくにもこの作品の声の質の低さは他のアニメ作品から頭一つ抜けている。
普通に作れば、声の演技の素人がここまで多用されることはまずあり得ないだろう。
むしろマイナーなアニメ作品でも起こり得ない現象だと思うと、この作品が突出しておかしいので、これは日本のアニメ業界を代表する流れとは言えない。
日本のアニメ業界を牽引してきた宮崎駿作品が、今や逆に裸の王様になってしまっている。
これが時代の流れ、一時代の終わり、というと寂しさが残るが、プロの声優達が、この作品についてどう思うのか、聞いてみたい気もする。
宮崎駿のタッチが全編に行き渡っていない
この作品の主要キャストは、宮崎駿らしい絵のタッチで、それなりに生き生きと作られていると思う。
しかし、それ以外で所々、本人が描いているのか?と思わされる絵のタッチや体の動きが混在していて、神経が全てに行き届いていない感じがして、萎える部分もあった。
例えば、冒頭で、眞人が母親の病院に向かって走っている時の通行人の顔やただずまいなど、本人が書いたとは思えない、宮崎の魂がこもっていない、普通の通行人の絵だった。
他の人が書いたのかな?とすら思う。
昔の作品であれば通行人ですら、息の通った宮崎タッチの絵で、全体として独特の濃さを感じさせられたが、そうはなっていない。
ラピュタやナウシカなど、トトロにおいても、通行人や一瞬しか出ないサブキャラですら、宮崎タッチで統一され、生き生きとしていた。
自分がいう宮崎タッチとは、絵そのものが宮崎風で、顔の表情や仕草が生き生きとしていることを言っている。
そうでない絵は、平面的で無表情だ。
それが宮崎作品、ジブリ作品の味であり、それが失われれば、もう普通のアニメ作品に成り下がってしまう。
眞人を夏子の屋敷に送る人力車の運転手も、しかめっ面のおじいさんだが、宮崎の魂がこもった絵ではなく、平面的で感情がこもっていない、普通の絵である。
まるで絵そのものが大根である、絵大根とでも言うべきタッチだ。
夏子は、下の世界で眞人と再会してから終盤にかけてはまだしも、序盤の時の顔は、特徴のない平坦なアニメ作品の顔で、宮崎が描いたとは思いづらい。
一方眞人の父親は、常時宮崎タッチである、と言える。
夏子の屋敷にいるおばあさんたちは、頭が大きすぎてリアルではなく、化け物みたいだったが、むしろこっちのタッチのほうが、宮崎の魂がこもっている。
千と千尋の湯ばぁばは、リアルではないけど、魂がこもっている。
おばあさんたちの一人であるキリコは、ごく普通の外見をしたおばあさんだが、キリコもまたタッチに魂があまり入っていない。
魂が入っていないことを、声優のマンパワーで補おうという自浄作用も働いていない。
ちなみにお手伝いさんの目尻が下がったおじいさんも、宮崎タッチではなく、絵大根だ。
下の世界のインコたちのタッチや動きなどもそうだ。
眞人が縛られ、インコが包丁を研ぎ、舌なめずりして包丁をなめて見せる仕草は、宮崎が作ったとは思えない、雑な動きであざとく感じた。
インコ大王が冷や汗を流して積み木を積むアニメチックな描写も、魂を感じられないあざとさを感じた。
ちなみに、上の世界で人間の魂になるかわいいワラワラ達は、目と口が簡単な点と線で、似た雰囲気を持つ、もののけ姫のコダマほどの魅力は感じなかった。
宮崎は、そのキャラクターの微妙で細かい顔の動きや仕草は、人間の文化の一つであり、決して省いてはいけないものだ、とアニメーターに怒っているドキュメントのシーンを昔見たことがある。
しかし、それがもう所々失われて、全体の作品としての統一感や宮崎臭が失われてしまっている。
これは、実際に宮崎が全ての絵を担当したわけではなく、他のアニメーターに手伝って描いてもらっているからだろう。
だからといって、宮崎タッチは独特すぎるので、そうではない絵とのギャップが激しく、お互いに目立ってしまい、違和感を生んでいる。
他のアニメーターが描こうが描かまいが、そこは鶴の一声で統一感を出すことは可能だろう。
より時間がかかるかもしれないが、それが監督をする、ということじゃないのか?
それをやらない時点で、大伯父のように、自分がどうしたいのか、もう良くわかっていない感じになってしまっているんじゃないか?
主要キャストの多くは頑張ってなんとか作っても、それ以外はタッチが違っても構わない、というのは、もはや宮崎作品ではない。
宮崎の弟子、米林が作った「メアリと魔女の花」を見た時の違和感に近いものがある。
絵は全般的に宮崎風にしているが、タッチや動きが、宮崎が許さないはずの平面的で無表情なキャラクターのシーンが多々見受けられ、萎えたのを覚えている。
やっぱり弟子は弟子なんだ、と天を見上げた。
メアリと魔女の花は、セリフ自体も所々、宮崎作品では見られない浅いセリフもあったので、この作品はそこまでではないにしろ、似た違和感は含んでいる。
きっと、監督は大伯父と同じでもう単純に体力がないのかな、と思う。
1万個絵があったら1万個全てに魂を込めるには、相当なエネルギーを消費することは、想像に難しくない。
それが自分が描こうか他人が描こうが、一定のクオリティーまで全て手直ししていく、というのはとんでもない肉体労働だろう。
しかし、今回の話は中身がないので、仮に全て質の高い宮崎タッチに仕上げ、声優もプロからオーディションを行い、絵と声の演技の質をマックスに持っていったところで、物足りない、もしくはつまらない、とされるだろう。
そうなった時に、今までの苦労は何だったんだ、となり、宮崎をはじめチーム全体の士気は地に落ちるだろう。
しかし、それでいい。
中途半端に力を込めてつまらないと言われるより、全力で全身全霊ですっ転んだ方が気持ちが良いし、次につながるはずだと思う。
80歳を超えてなお、人前で大スベリ出来るというのは、人間としてこんなに幸せなことはないだろう。
それこそ、大伯父のように過去の栄光にすがって現状維持するより、眞人のように戦争が行われている現実に立ち向かって行くほうが、比べ物にならないくらい格好良い。
なので、この作品はもっと宮崎駿の神経が全編にわたって、コンマ何秒の隅々まで隙間なく張り巡らされるくらい、宮崎タッチに力を入れてほしかった。
もちろん声優にも。
おまけ:スタジオジブリの俳優キャスティングの全盛期と衰退
調べてみると、宮崎作品では1997年の「もののけ姫」から、高畑勲作品では1994年の「平成狸合戦ぽんぽこ」から、一気に声優に取って代わり、俳優やタレントの起用が爆発的に増えている。
ナウシカから始まり、ラピュタ、トトロ、魔女の宅急便と大ヒットし、1992年の「紅の豚」あたりまではプロの声優が出演者のほとんどを占めていた。
もののけ姫はサンがやはり棒読みだが、犬に育てられた、という設定にも助けられ、脇を固めるアシタカ(松田洋治)やモロ(美輪明宏)、乙事主(森繁久彌)、エボシ(田中裕子)に至るまで、見事に違和感なく、俳優達が声の演技をやってのけている。
違和感がないどころか、声優がかすむほどだ。
ぽんぽこも、主演は野々村真というまさかのキャスティングだがハマっていて、プロの声優も出ているが、他の俳優たちもそれなりに声優の仕事をし、作品を独特な味のあるものに仕上げている。
破天荒たぬきの権太は泉谷しげる、主人公正吉の優しい友人のポン吉は林家正蔵(こぶ平)、旅から帰ってきた文太は村田雄浩、ビジネス狐の竜太郎は福澤朗、とバラエティに富んでいて、それぞれの良い味がちゃんと出ているから不思議だ。
タレント、歌手、俳優、落語家、アナウンサー、ととんでもない人選だが、見事にまとめ上げている。
きっとこの頃の宮崎駿や高畑勲は、とんでもなくダメ出しもキツかったんじゃないかと思う。
そこら辺で鈴木敏夫が味をしめ、水を得た魚になったからかは分からないが、それ以降俳優キャスティングがありきになり、「となりの山田くん」を経て、ついに「千と千尋の神隠し」の大成功で、その路線は揺るぎないものになったと思われる。
千と千尋は、興行収入が他の作品とはケタ違いだ。
ジブリの初期の3作、ナウシカ(84年)、ラピュタ(86年)、トトロ(88年)の3つを合わせても、興行収入は37.1億円だけだが、ぽんぽこ(94年)は44.7億円、もののけ姫(97年)は201.8億円、千と千尋の神隠し(01年)は316.8億円という莫大な興行収入を単独で稼いでいる。
80年代はジブリの知名度がなく、子供向けでないアニメ映画自体マイナーで、作品に対する注目度も低かった。
しかし、ヒットを重ね、ジブリとアニメ映画が認知されるにつれ、世間の注目度も爆上がりし、徐々に俳優やタレントの声優起用が増えていく。
ぽんぽこも、もののけ姫も千と千尋も、声優以外を起用して、実際に声の演技が良かったから、ヒットの要因の一つになり得たのに、とにかく声優以外を起用しておけば儲かるんだ、と制作側が間違った学習をしてしまったんだろう。
それ以降もその手法でなんとか食いつなごうとして、監督や作品の力が弱くなってきていることにも気づかず続けた結果、この作品の惨状に至る。
役に合っている人を幅広い分野から選ぶ、という純粋なやり方から、いつしか儲けるために盲目的に有名俳優やタレントから選ぶ、というやり方にすり替わってしまった。
100年後、それよりも先の未来に向け、変わらず「この作品すごいぞ」と語り継がれていくのは前者か後者かは明らかだろう。
もはや、なぜ声優以外を起用しているのか、という当初の理由も忘れ、成功した手法にすがりついているだけの成れの果てだ。
大伯父とはまさにスタジオジブリのことじゃないか。
監督の見る目が失われ、すがってきた手法だけが亡霊のように残ってしまった。
ちなみに宮崎の弟子である米林宏昌は、独立してアニメ映画を作っているが、俳優キャスティングも継承したようで、声優には有名俳優ばかりを起用している。
その手法は、使い方によっては諸刃の剣であることをもっと知った方が良いんじゃないかと思う。
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