愛してるって言っておくね 英題:If Anything Happens I Love You
監督-ウィル・マコーミック 2020年 12分 アメリカ
脚本-ウィル・マコーミック、マイケル・ゴヴィア
制作-マリアン・ガーガー、ゲイリー・ギルバート、ジェラルド・シャマレス、マイケル・ゴヴィア
音楽-リンゼイ・マーカス
映画「愛してるって言っておくね」のあらすじ
銃乱射事件によって娘を亡くした父と母は、会話もなく食卓を囲んでいる。
早々に食事を切り上げた父は庭を散歩し、娘との思い出を見つけるも力なく笑い、ビールを飲みながら一人テレビを見てもどこか上の空だった。
母は花壇の花をいじるも気持ちは晴れず、洗濯機の中から偶然娘のTシャツを見つけると、ついにはそれを抱きしめ、泣きながらへたり込んでしまった。
そんな時、洗濯機の上から落ちてきたボールが娘の部屋の中に転がっていき、偶然レコードにぶつかって音楽が流れ始めた。
聞き馴染みのある音楽に誘われるように、娘の部屋の中に入っていった母と父の前に、娘の魂が表れる。
娘の魂は無邪気に猫とたわむれ、父と母を過去の思い出に誘うのであった。
“今すぐ見るべき☆5″理由と考察、その感想
12分だが心揺さぶられる映画
学校で起きた銃乱射事件をモチーフに描かれた短編アニメ作品。
12分という超絶に短い映画ではあるが、大いに涙腺が揺さぶられてしまった。
銃乱射事件というと、日本からすると対岸の火事で、銃社会をいつまでも止めようとしない、止めれないアメリカ国民もおかしいのではないか、と思っていたが、この作品により、彼らの苦しみというものがより身近に感じられた。
なぜなら、描かれている父親と母親、娘も、ヨーロッパ系にもアジア系にも見える、日本人にも見える描き方なので、より親近感を持って感じられた。
むしろ日本人が作画したのかな、とすら思ってしまう。
声が出るシーンは一切なく、娘が携帯に打った英語だけ意味が分かれば、全世界の人が理解できる内容になっている。
声がないから物足りないかというとそうではなく、残された両親、両親と娘の回想シーンや3人の魂が動いて感情表現をする様が、むしろしゃべるよりも雄弁に彼らの気持ちを代弁している。
暗い内容、もしくは説教くさい社会的メッセージなどでは全くなく、むしろ、亡くなった娘の魂がポジティブに躍動する様が描かれ、前向きで、ある意味爽やかさがあり、それがゆえにより悲しみが助長される。
アニメというものが、どれだけ人の心を饒舌に映し出し、人間社会に強い影響を及ぼし得る媒体であるかを再認識させられる。
影が両親の心を映し出す
冒頭から、残された両親が落ち込みながら食事をしているシーンで、彼らの魂であろう黒い影が、彼らの後ろから伸びて影同士でケンカをしている様子など、アニメでしか描けない見事な描写だ。
娘が亡くなってから、お互いを傷つけ合うようなケンカをしてしまったのかもしれない。
人は誰しも本心とは別に現実の行動を行うものだが、その裏腹感が影によってよく表現されている。
鳥山明の絵のような緻密な作画の人物描写ではなく、素朴でシンプルな作画だが、彼らの悲しみが十分すぎるほど伝わってくる。
何も言わない丸まった背中の父親など、哀愁があって非常に良い。
食事上の空でミートボールをいじる母親なども、気持ちがよく表れている。
もうこの時点で彼らの悲しみに触れて、やりきれない気持ちになるが、その後の影と現実の彼らとのやり取りも切ない。
父親が家の裏を通り、娘との思い出が詰まった、修理された家の壁のペンキ部分を見て悲しそうに笑うが、父親の影はそのペンキを抱きしめる。
元気もなくテレビを見る父親を、影は励まそうと手を伸ばすも、どう励まして良いのかも分からない。
土いじりをする母親を、母親の影が必死で励まそうと花を咲かせるが、母親の表情は変わらず、影は落ち込む。
こんなやりきれない事件を抱えて、気持ちを切り替えようと頭のどこかで思っていても、そう上手くは行かない心情をよく表している。
母親が娘の洗濯物を見つけてしまい、思わず抱きしめ、影もその母親を抱きしめる感じも悲しすぎる。
躍動する無邪気な娘の魂
しかし、洗濯機の上から落ちてきたボールが娘の部屋に入ってしまい、レコードにぶつかって音楽が再生され、母親と父親はそれにつられて娘の部屋に入り、影たちは娘の写真を見て楽しそうにする。
そしてレコードから飛び出た娘の魂が、猫とたわむれだすところでは、その爽やかで優しい味のある歌も相まって、完全に涙腺が崩壊した。
娘の魂は相変わらず無邪気で、落ち込んでいる父親と母親を今だに近寄せて座らせるほどのパワーを持っていた。
娘の魂も自分が死んだことを悲しんでいる、というマイナスな描写ではなく、変わらずに楽しそうに遊んでいる感じが、例え死のうがその魂が事件によって汚される訳ではない、と言わんばかりで、救いになっていて良い。
救いというか、きっと実際にそうなんだろうと思う。
より涙が溢れてしまうが、時に子供は天使とも称されるが、娘が影になったことにより、より天使感が強調され、攻撃的ではない、無邪気なパワーで見ているものを包み込む。
その後、娘の影は、自分のTシャツにプリントされた風景の中に両親の影と入り込み、三人の回想シーンが始まる。
三人での旅行風景、父と母が出会ってが娘が生まれ、娘との食事やサッカーボール遊び、娘の誕生日での初恋のひと時など、かけがえのない三人の時間を楽しそうに影たちは見守っている。
両親を支え、守る娘
そして、ついに事件当日、学校に一人向かう娘を、これから何が起こるのか知っている両親の影たちは、必死で止めようとするがうまくいかず、この上なくやりきれない。
影たちが娘の手をつかんだり、二人でぐるぐる巻きにして娘を行かさないようにしようとするが、当然影たちにそんな力などなく、奮闘むなしく娘は学校に行ってしまった。
きっと、この場面を両親は何回も振り返って自分を責めたんだろうと思う。
しかし、犯罪者が逃げたという情報でもなければ、両親が娘を学校に行かさないのは不可能なので、両親のせいではない。
かといって、自分達のせいではない、と言われたところで、今度は自分には何も出来なかった、という強烈な無力感にさいなまれるだろう。
そんな、何もできなかった悔しさ、絶望感というものが、娘を必死で止めようとするこの両親の影によく表れていて、胸が締め付けられる。
その後、何かを察知したのか、娘は、「何があっても、愛してるって言っておくね」と娘から両親にメッセージが送られる。
そして事件後、互いにそっぽを向いてうつむき、離れていく両親の影に、娘の影が戸惑い、今度は娘が両親の影に働きかける。
離れていく父と母を、手では戻せないと思った娘の影は、無理矢理地面を縦に割って、父と母はすべってぶつかり、お互いの存在にようやく気づき、娘は大きな太陽になってそんな二人を笑って見ている。
娘が生まれたことによって発生した悲しみは、娘によって救われた。
この娘の魂は、もしかしたらこの事件を、自分に起きたことを、残された両親のことを、両親よりも冷静に見ているのかもしれない。
レコードから抜け出し、猫と遊んでその場の空気を変え、良い思い出を振り返らせて両親の心を温め、最終的に離れた両親を強引にくっつけもした。
事件当日のメッセージは、自分よりも両親のことを心配して送ったメッセージにも見えるし、生きている時から、実は娘はただ親に守られる存在ではなく、親も守っていたんだろうと思う。
被害者である娘は、悲劇の中心にいる存在ではなく、今までもそしてこれからも、家族を前向きにしてくれるポジティブな存在として描かれていることに、非常に好感が持てる。
昔のドキュメントで、日本人の盲目の母親が、子供が出来たことでその子に色々な体験をさせるため、またその子自身とても行動的なため、自分の行動範囲も激的に広がった、という話を聞いたことがある。
子供は母のことなどお構いなしに、行きたい所へガンガン進み、新たな遊び場を開拓し、母は振り回される様についていかざるを得ない。
自分一人では入りづらかった店や場所も、子供が一緒なら入ることが出来る。
母親が、この子とならどこへでも行ける、この子がいれば怖くない、と前向きに言っていたことが印象に残っている。
きっと、子どもというのは知らず知らずに親を守っている存在なんだろう。
様々な意味のハグが物語る感情
この作品では、ハグをする描写が所々に出てくる。
父親の影がペンキに、母親の影が悲しむ現実の母親に、生まれたての娘に父と母が、それを見て笑う三人の影もまた、娘が学校に行く前に三人で、娘の影が無理矢理くっつけた父と母が、そしてそれを見ていた父と母の影もハグをし、二人の間には光になった娘がいた。
喜びや嬉しさのハグ、愛おしさを表すハグ、心が張り裂けそうな相手と悲しみを共有するハグ、言葉にならないハグなど、様々出てくる。
ハグという文化は日本人にとっては外国文化で、グローバル化した昨今でも、見かけたことはあっても実際にやることにはあまり馴染みがないと思うが、このドラマを見ると、その行為の重要性がよく分かる。
言葉にならない3人の心情が、このハグによりよく表現されていて、しゃべらずとも気持ちを伝える良いボディランゲージなんだと認識させられた。
このハグがなければ、しゃべりを使わないこの作品は、物足りないものになっていたかもしれない。
なので、日本人には作れなかっただろう。
こっ恥ずかしい、などという感情がかき消されるほどの状況である、ということもあるが、一つでない色々な意味のハグが、より雄弁に3人の気持ちを表現している。
そういう意味でも、アニメとはいえ、感情豊かな作品である、と言える。
作為的でない挿入歌とエンディング曲
ちなみに、レコードから流れた耳に残る曲は、King Princessの「1950」、エンドロールの曲は、MARKSの「What Did I Ask For 」という曲が使われている。
「1950」は恋愛がテーマの曲であるが、「私の神があなたの姿をしているのはなぜか教えて」「私はあなたを待ち祈る、あなたの愛を待ち続ける」「私はあなたの人生が、私といたことで幸せだったことを願っている」などという歌詞が、この作品にリンクしているとも言える。
エンドロールの「What Did I Ask For 」は、若い自分の青春時代を振り返っている曲で、「こんなにも強く抱きしめられた愛を、全く感じなければ良かったのに」「苦労して得たメッセージは洗い流されない」「私は今もあなたが残したものを追いかけている、こんなに長い時間がたった後でも」などという歌詞が、その優しい曲調と相まって作品を包みこんでいる。
MARKS – What Did I Ask For
この2つの曲が、それぞれ人の死や家族の絆をダイレクトに表現した曲でない、というのも、作為的でなくて好感が持てる。
感動させようというよりも、純粋に作品に合った音楽を選んでいる感じが良い。
1950というレコードの曲は、もしかしたら娘が好きだった曲かもしれないし、3人での旅行中にも流していた曲なのかもしれない、と勝手に想像が膨らむ。
両親は特に自分から聞こうとはしなかったが、一度かかってしまえば、娘との記憶が芋づる式に出てくる感じがリアルだし、涙腺を揺さぶられる。
それは娘がそうさせたのかもしれないが。
銃社会というアメリカの闇
この12分の短い映画には、親と娘の心情が、声は使わずに、その人物描写の秀逸さで、十分すぎるほど凝縮されている。
この作品は、出来ればシリーズものにして、この製作者にはたくさんの作品を作って欲しいと思う。
この一作品だけで終わらすにはもったいなく感じてしまう。
きっと銃乱射事件がなければ、この作品は作られなかった訳で、本当はこの作品は存在してはいけないんだろう。
自分がもしこの作品の親であったなら、その怒りの矛先は、犯人はもとより銃社会にも向かうと思う。
そして、一見平和に見えても、根底が銃社会であることを知っているのに、無意識的にその社会を容認して、変えようともしなかった自分がいたとしたら、自分にも。
娘の魂は自分を責めていなかったとしても、銃社会の撲滅に一生を捧げることでしか、気持ちの持って行きようはないんじゃないかと思ってしまう。
もしアメリカに移住していたとしたら、移住を決めた自分も責めてしまう。
なのでアメリカ文化は好きだが、アメリカには今のところ住みたくない。
賃金が安くて物価が上がり、色々と改善の余地がある社会でも、銃のない日本の方がまだ全然良い。
日本にも通り魔事件はあるけど、頻度がアメリカの銃乱射事件に比べて少なすぎる。
もちろん一件でもあってはいけないが。
Gun Violence Archiveというサイトによると、アメリカでは2023年、4人以上が死傷する銃乱射事件が656件発生、銃に関わる事件で4万2920人が死亡しているらしい。
そのうち子どもや青少年は約1680人死亡、内訳は乳児から11歳までが295人、12歳から17歳までが1381人だったという。
気が狂いそうな数字だ。
2022年のアメリカの人口が3.333億人、日本が1.251億人なので、雑だがこの比率で日本に置き換えると、仮に日本では1年で246件の銃乱射事件が起き、630人の子供や青少年が亡くなっている計算になる。
よく銃規制を求める暴動が起きないものだ。
差別やポリティカルコレクトネスには敏感なのに、銃に対してはそうではないのか。
アメリカはエンターテイメント作品を作るのも良いけど、この作品のように、銃社会の理不尽さを描いた映画をもっと描くべきなんじゃないか?
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